く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。
わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山の消息《せうそこ》と註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹が難波人《なにはびと》峰岸某から朝顔の種子《たね》を得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論|異歌《ことうた》であつた。
これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。
書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州|牽牛花《けんぎうくわ》の種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に
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