、三年九月に大目附《おほめつけ》服忌令分限帳改《ぶくきりやうぶんげんちやうあらため》となり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。法諡《はふし》して徳源院譲誉礼仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊沢家施主|八幡祐観《やはたいうくわん》」と彫《ゑ》つてある。
徳さんは嘗て「正弘公懐旧紀事」を閲《けみ》して、安政元年に米使との談判に成つた条約の連署中に、伊沢美作守の名があるのを見たと云ふ。これは頃日《このごろ》公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守|抔《など》は当春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。
十世助三郎は慶応武鑑の寄合の部に、「伊沢力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顕享院秀誉覚真政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或
前へ
次へ
全1133ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング