《しらせ》を待つた。距離が尚遠く、大鼓の響が未だ聞えぬに、斥候は帰つて、只今山車が出ましたと報ずる。両先生は直に福草履を穿いて馳せ出で、山車を迎へる。そして山車の背後に随つて歩くのである。車上の偶人、装飾等より囃の節奏に至るまで、両先生は仔細に観察する。そして前年との優劣、その何故に優り、何故に劣れるかを推窮する。わたくし共は毎に両先生の帰つて語るのを聞いて、所謂大人者不失其赤子之心者也とは、先生方の事だと思つた。」以上が松田氏の言《こと》である。わたくしは偶《たま/\》松崎慊堂文政甲申の日暦を閲して、「十五日(六月)晴、熱、都下祭山王、結綵六十余車、扮戯女舞数十百輩、満城奔波如湧」の文が目に留まつた。慊堂も亦祭礼好の一人ではなかつただらうか。
その三百二十六
柏軒の一大特色はその敬神家たるにあつた。兄榛軒の丸山の家には仏壇があり、又書斎に関帝、菅公、加藤肥州の三神位が設けてあつたに過ぎぬが、柏軒の中橋の家、後のお玉が池の家には、毎室に神棚があつた。
棚は白木造で、所謂神体を安置せず、又一切の神符の類をも陳ぜなかつた。只神燈を燃し、毎旦塾生の一人をして神酒を供へしめた。松田|道夫《だうふ》は塾頭たる間、常に此任に当つてゐた。神酒を供へ畢《をは》れば、主人は逐次に巡拝した。
柏軒の神を拝する時間は頗《すこぶる》長かつた。塾生中には師を迷信なりとして腹誹《ふくひ》し、甚しきに至つては言《こと》に出し、其声の師の耳に達するをも厭はぬものがあつた。家の玄関には昧爽より轎丁《かごかき》が来て待つてゐて、主人の神を拝して久しく出でざるをもどかしがり、塾生を呼んで「もし/\、内の神主さんの高間が原はまだ済みませんかい」などと云つた。柏軒は此等の事を知つてゐて、毫も意に介せなかつた。
柏軒は江戸の市街を行くにも、神社の前を過ぐる毎に必ず拝した。公事を帯びて行くのでないと、必ず鳥居を潜り広前《ひろまへ》に進んで拝した。又祭日等に、ことさらに参詣するときは、幣《みてぐら》を供ふることを懈《おこた》らなかつた。
癸亥の年に西上した時には、柏軒は駅に神社あるに逢へば必ず幣を献り、神職に金を贈つた。「神道録」は断片に過ぎぬが、当時柏軒が所感を叙述したものである。京都に入つた後、公事に遑《いとま》ある毎に諸神社を歴訪したことは、上《かみ》に引く所の日記にも見えてゐる。
柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼与大小神祇乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真、忠心善意善行之者、被災害事者決無之、(中略)唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候」と云つてある。その信念のいかに牢固であつたかを徴するに足るのである。此書は上《かみ》に其全文を引いて置いた。
柏軒は屡神の託宣を受けたと称した。松田氏は其一例を記憶してゐて語つた。「柏軒先生は毎年八月二十五日に亀井戸の天満宮に詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟に乗つて往つた。小野|富穀《ふこく》の如きは例として随従した。安政三年八月二十五日に門人数人が先生の終日家に帰らぬを予期して、相率《あひひきゐ》て仮宅に遊んだ。わたくしも此横著者の一人であつた。然るに此日には先生は亀井戸に往かずに、書斎に籠つて日を暮らした。是は天神の託宣に依つて門を出でなかつたのである。此日は二日前より雨が少しづつ降つてゐたが、夜に入つて暴風雨となつた。江戸の被害は前年の地震に譲らず、亀井戸辺では家が流れ人が溺れた。」
柏軒は又人の病を治して薬方の適応を知るに苦み、神に祈祷して決することがあつた。
その三百二十七
わたくしは此より柏軒の門人の事を言はうとおもふ。しかし蘭軒門人録、榛軒門人録は良子刀自所蔵の文書中に存してゐて、独柏軒のもののみが無い。歴世略伝には只九人の名が載せてある。「門弟。松田道夫、塩田真、志村玄叔、平川良栄、清川安策、岡西養玄(後岡寛斎)、成田元章、斎木文礼、内田養三(岡西以下福山藩。)」
此等の門人中主として師家のために内事に任じたものは清川、志村、塩田の三人で、外事に任じたものは松田であつたと云ふ。
清川安策孫の事は既に榛門の一人として上《かみ》に載せてある。しかしわたくしは後に堀江督三さんを介し、孫の継嗣魁軒さんに就いて家乗を閲《けみ》することを得たから、此に其梗概を補叙する。
蘭門の清川|※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《がい》は家世より言へば孫の祖父、実は孫の父であつた。是は既に云つた如く孫が所謂順養子となつたからである。
※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]、字《あざな》は吉人《きつじん》、靄※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《あいとん》
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