りて着て、若党草履取をしたがへ、鋏箱を持たせて行つた。板橋は無邪気な漢《をとこ》で、薬取の任を帯る毎に、途次親戚朋友の家を歴訪して馬牛の襟裾《きんきよ》を誇つたさうである。松田氏の云ふを聞くに、細川家も亦柏軒の病家であつた。
柏軒の相貌は生前に肖像を画かしめなかつたので、今これを審《つまびらか》にし難い。曾能子刀自の云ふには、榛柏の兄弟は兄が痩長で、弟が肥大であつた。父蘭軒に肖《に》たのは、兄ではなくて弟であつたと云ふ。
松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生は十年前の信平君に似てゐた。あれを赭顔《あからがほ》にすると、先生そつくりであつたのだ。先年わたくしは磐《いはほ》の名義を以て、長谷寺に於て先生の法要を営んだことがある。其時門人等が先生に遺像の無いのを憾として、油画を作らせようとした。それには信平君を粉本として画かせ、わたくしにその殊異《しゆい》なる処を指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]せしめ、屡改めて酷肖《こくせう》に至つて已むが好いと云ふことになつた。此画像は稍真に近いものとなつた。」渋江保さんの云ふには、此法要は恐くは明治三十二年柏軒三十七回忌に営まれたものであらうと云ふ。
松田氏は又云つた。「柏軒先生の面貌には覇気があつた。これに反して渋江抽斎先生は丈高く色白く、余り瘠せてはゐなかつたが、仙人の如き風貌であつた。」
その三百二十五
柏軒が父蘭軒、兄榛軒と同じく近視であつたことは、既に上《かみ》の松田氏観劇談に見えてゐる。柏軒の子徳安磐にも此遺伝があつたさうである。最も奇とすべきは、柏軒近視の証として、彼蘭軒が一目小僧に逢つたと云ふに似た一話が伝へられてゐることである。それはかうである。
浜町に山伏井戸と云ふ井があつた。某《それ》の年に此井の畔《ほとり》に夜々《よな/\》怪物《ばけもの》が出ると云ふ噂が立つた。或晩柏軒が多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の家から帰り掛かると、山伏井戸の畔で一人の男が道連になつた。そして柏軒に詞《ことば》を掛けた。
「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩ぢやあありませんか。」
柏軒は「何故」と云つて其男を顧みて、又|徐《しづか》に歩を移した。
男は少焉《しばらく》して去つた。
次の夜に同じ所を通ると、又道連の男が出て来て、前夜と同じ問を発した。然るに柏軒の言動は初に変らなかつた。
三たび目の夜には男は出て来なかつた。是は来掛かる人に彼問を試みて、怖るべき面貌を見せたのであるが、柏軒は近視で其面貌を見なかつた。男は獺《かはをそ》の怪であつたと云ふのである。渋江保さんは此話を母五百に聞き、後又兄矢島|優善《やすよし》にも聞いたさうである。
柏軒は絶て辺幅を修めなかつた。渋江保さんの云ふを聞くに、柏軒は母五百を訪ふ時、跳躍して玄関より上り、案内を乞ふことなしに奥に通つた。幼《いとけな》き保の廊下に遊嬉《いうき》するを見る毎に、戯に其臂を執つてこれを噬《か》む勢をなした。保は遠く柏軒の来るを望んで逃げ躱《かく》れたさうである。
柏軒は酒色を慎まなかつた。毎に門人に戯れて、「己も少《わか》い時は無頼漢であつた」と云つたのである。又門人平川良栄は柏軒の言《こと》として竊《ひそか》に人に語つて云ふに、「先生はいつか興に乗じて、己の一番好なものは女、次は酒、次は談《はなし》、次は飯だと仰つたことがある」と云つた。好色の誚《そしり》は榛柏の兄弟皆免れなかつたが、二人は其挙措に於て大に趣を殊にしてゐた。榛軒は酒肆妓館に入つて豪遊した。しかし家庭に居つては謹厳自ら持してゐた。これに反して柏軒は家にあつて痛飲豪語した。少かつた頃には時に仕女に私したことさへあつた。是は曾能子刀自の語つた所である。
柏軒は家人を呼ぶに、好んで洋人の所謂ノン、ド、カレツスを以てした。息《むすこ》鉄三郎を鉄砲と云ひ、女《むすめ》安《やす》を「やちやんこ」と云ひ、琴を「おこちやん」と云つた類である。是は柏軒の直情径行礼法に拘らざる処より来てゐる。此|癖《へき》は延《ひ》いて其子徳安に及び、徳安は矢島優善の妻鉄を呼んで「おてちやん」と云つた。これに反して渋江抽斎の如きは常に其子を呼ぶに、明に専六と云ひ、お陸と云つた。女《むすめ》棠《たう》に至つては、稍呼び難きが故に、特に棠嬢と称した。
柏軒は江戸市中の祭礼を観ることを喜んだ。是は渋江抽斎と同嗜であつた。松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生や抽斎先生の祭礼好には、わたくし共青年は驚いた。柏軒先生の家が中橋にあつた頃は、最も山王祭を看るに宜しく、又狩谷翁の家は明神祭を看るに宜しかつた。山車《だし》の出る日には、両先生は前夜より泊り込んでゐて、斥候《ものみ》を派して報
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