たくしにかう云ふ事を言つた。それは柏軒先生が若し生きながらへて此聖代に遭はれたら差詰《さしづめ》神祇官の下《もと》で大少副の中を拝せられるのだつたにと云つたのである。わたくしは其時も答へて云つた。いや、さうでない。なる程先生は敬神の念の熱烈であつたことは比類あるまい。しかし官職の事は自ら別で、敬神者が神祇官に登庸せられると云ふわけには行かない。先生は矢張あの時亡くなられて好かつたのだと云つた。」
「わたくしの柏軒先生は死所を得たものだと云ふのは、抑《そも/\》理由のある事である。」
その三百二十二
わたくしは柏軒が死所を得たと云ふ松田氏の談話を記して、未だ本題に入らなかつた。松田氏は下《しも》の如くに語り続けた。
「柏軒先生が多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻元冬嶺の歿後に出でゝ、異数の抜擢を蒙つた幸運の人であつたことは、わたくしの前《さき》に云つた如くである。又その公衆に対する地位も、父蘭軒、兄榛軒の余沢を受けて、太《はなは》だ優れてゐた。先生がお玉が池時代に有してゐた千戸の病家は、先生をして当時江戸流行医の巨擘《こはく》たらしむるに足るものであつた。」
「しかし先生を幸運の人となすのは、偏に目を漢医方の上にのみ注いだ論である。若し広く時勢を観るときは、先生の地位は危殆《きたい》を極めてゐた。それは蘭医方が既に久しく伝来してゐて、次第に領域を拡張し、次第に世間に浸漸し、漢医方の基礎は到底|撼揺《かんえう》を免るべからざるに至つたからである。」
「蘭医方、広く云へば洋医方は終局の勝者であつた。此時に当つて、敗残の将が孤塁に拠るやうに、稍久しく漢医方のために地盤の一隅を占有した人がある。彼浅田|栗園《りつゑん》の如きは即是である。若し柏軒先生が此に至るまで生存してゐたら、能く身を保つこと栗園に等しきことを得たであらうか。わたくしは甚だこれを危む。」
「わたくしの見る所を以てすれば、豪邁なる柏軒先生は恐くは彼|慧巧《けいかう》なる栗園を学ぶことを得なかつたであらう。又操守する所の牢固であつた柏軒先生が、彼時と推し移つて躊躇することなく、気脈を栗園に通じて能く自ら支持した清川玄道と大に趣を異にすべきは論を須《ま》たない。先生は玉砕すべき運命を有してゐた人である。わたくしが先生を以て死所を得たとなすのは、これがためである。」
「独り先生を然りとするのみではない。先生の門下には一人として新興の洋医方の前に項《うなじ》を屈したものは無い。塩田だつて、わたくしだつて、医としては最後に至るまで漢医方を棄てなかつた。わたくしは郷人に勧誘せられて、維新第二年(己巳)に岩村藩の権大参事になつて医を廃した。」
以上は松田氏が柏軒の癸亥七月十九日淹京中の死を以て所を得たものとする論断である。わたくしは此より柏軒の学術を一顧しようとおもふ。是も亦主として松田氏と塩田氏との言《こと》に拠らざることを得ない。
科学の迹は述作に由つて追尋するより外に道が無い。然るに伊沢氏は蘭軒以下書を著さなかつた。是は蘭軒の遺風であつた。それゆゑ柏軒所著の書と云ふものも亦絶無である。
わたくしは此事に関する松田氏の言《こと》を下《しも》に記さうとおもふ。是は蘭軒の条に云つた所と多少重複することを免れぬが、柏軒の学を明にするには、勢《いきほひ》伊沢家学の源統より説き起さゞることを得ぬのである。
その三百二十三
松田氏は柏軒医学の伝統を説くこと下《しも》の如くである。「支那の医学は唐代以後萎靡して振はなかつた。唐宋元明清の医家には真に大家と称するに足るものが莫い。それゆゑに我国の多紀氏に、桂山《けいざん》※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の父子が相踵《あひつ》いで出でたのは、漢医方の後勁とすべきである。肥後に村井氏があつて、見朴《けんぼく》琴山《きんざん》の橋梓《けうし》相承けて関西に鳴つたが、多紀氏の該博に視れば、尚一籌を輸してゐた。」
「伊沢蘭軒は多紀父子と世を同うして出で、父子が等身の書を著すを見て、これと長を争ふことを欲せなかつた。且述作の事たる、功あれば又|過《あやまち》がある。言《こと》一たび口より発し、文一たび筆に上るときは、いかなる博聞達識を以てしても、醇中《じゆんちゆう》に疵《し》を交ふることを免れない。蘭軒は多紀氏の書を読んで、善書も亦往々人を誤ることあるを悟つた。是が伊沢氏の不立文字《ふりふもんじ》の由つて来る所である。」
「蘭軒は此の如くに思惟して意を述作に絶ち、全力を竭して古書の研鑽に従事した。そしてその体得する所はこれを治療に応用した。古書中蘭軒の最も思を潜めたの
前へ
次へ
全284ページ中245ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング