じ》を百之助と云ふ人があつた。後の隼人|正容《まさかた》である。正徳五年正月に父正邦がみまかり、三月に兄伊勢守|正福《まさよし》が所領の内五千俵を割いて正容に与へた。是が福山阿部の分家である。分家二世は靱負正依《ゆきえまさより》、三世は長門守|正利《まさとし》、四世は靱負|正溥《まさひろ》、五世は隼人|正純《まさずみ》である。丁巳六月に駿府加番の命を受けたのは、此正純である。
七月二十五日に棠軒良安は春安と改称した。公私略に「七月廿五日、春安と改名、願之通被仰付」と云つてある。
八月十三日に阿部本家に於て賢之助が家督相続をした。賢之助は致仕|正寧《まさやす》の長男で、即伊予守|正教《まさのり》である。先代正弘は棕軒|正精《まさきよ》の六男で、正寧の弟であつたから、正教は叔父《しゆくふ》の後《のち》を承けたのである。
九月二十一日に棠軒は阿部正純に扈随《こずゐ》して江戸を発した。公私略に「九月廿一日御発駕御供いたし候」と云つてある。
十月十五日に中橋伊沢分家に慶事があつた。柏軒が将軍家定に謁したのである。此年の武鑑には目見《めみえ》医師の下《もと》に「まき丁伊沢磐安」と載せてある。槇町《まきちやう》は即中橋の居を斥《さ》して言つたのである。
謁見の日の服装従者の事が、良子刀自所蔵の雑記に「芸庵君口授」と題して載せてある。わたくしは当時の幕府医官の風俗を徴証せむがために此に抄出する。「御目見当日。帯無地黒琥珀、織出截棄。手巾白※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]布。懐中刀紫覆紗。侍麻上下。両箱持背後へ寄せ一本差。」芸庵《うんあん》とは誰であらうか。奥医師木挽町の柴田芸庵は安政元年に至るまで武鑑に見えてゐて、二年以後|刪《けづ》られてゐる。或は致仕してゐたものか。其他原氏にして世《よゝ》芸庵と称したものがあるが、恐くは別人であらう。猶考ふべきである。
松田氏に聞けば、柏軒をして幕府の医官たらしめむとするは、兄榛軒の極力|籌画《ちうくわく》する所であつた。榛軒は父蘭軒の柏軒を愛したことを知つてゐて、柏軒を幕府に薦むるは父に報ゆる所以だと謂《おも》つたのである。壬子の歳に榛軒は弟の躋寿館《せいじゆくわん》の講師を拝するを見て死んだ。尋《つい》で榛軒歿後四年丙辰の歳に、柏軒は福山の医官となつた。しかし是は柏軒の願ふ所でもなく、又榛軒の弟のために謀《はか》つた所でもなかつた。賦性豪邁なる柏軒は福山に奉職することを欲せず、兄も亦これを弟に強ふることを欲せなかつたのである。丙辰の筮仕《ぜいし》は柏軒が数多《すうた》の小事情に絆《ほだ》されて、忍んで命を奉じたのであつた。既にして此年に至り、柏軒は将軍に謁した。是は亡兄画策の功程《こうてい》が一歩を進むることを得たのだと云ふことである。
その三百五
此年丁巳十二月十三日に、柏軒の妻|俊《しゆん》が四十八歳で歿した。俊の病は今これを詳《つまびらか》にすることが出来ぬが、此冬|疾《やまひ》の作《おこ》つた初に、俊は自ら起つべからざるを知つて、辞世の詩歌を草し、これを渋江抽斎の妻|五百《いほ》に似《しめ》した。五百は歌を詠じて慰藉した。抽斎は屡《しば/\》俊の病を問うたが、或日帰つて五百に謂《い》つた。「お俊さんはもう長くは持つまい。昨日までは死ぬる死ぬると云つてゐたのに、今日は病気が直つたらどうするのかうするのと云つた。あれは悪い兆候だ」と云つた。俊は二三日の後に死んださうである。
俊は既に記した如く狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》で、才名一時に高かつた。其性行は概ね上《かみ》の婚嫁の条に云ふ所に尽きてゐる。わたくしは此に俊の一奇癖を補記する。それは俊が森枳園と同じく蛞蝓《なめくぢ》を嫌つて、闇中に蛞蝓を識つたと言ふことである。
此年池田氏の宗家で二世|瑞仙晋《ずゐせんしん》が七十七歳で歿した。武鑑に「寄合御医師、二百表、下谷新屋敷、池田瑞仙」と記するものが是である。新屋敷とは柳原岩井町代地であらう。武鑑は同時に「御目見医師、下谷三枚ばし、池田瑞長」を載せてゐる。是が京水の嫡男|天渓直頼《てんけいなほより》であらう。三枚橋の家は京水の旧居である。
小島氏では春沂抱沖《しゆんきはうちゆう》が此年|閏《じゆん》五月八日に歿して、弟|春澳瞻淇《しゆんいくせんき》が順養子となつた。瞻淇の日記を閲《けみ》するに、柏軒は五月二十八日、森枳園は閏五月二日に往訪した。彼は死前十日、此は六日であつた。春沂は此年の武鑑に「寄合御医師、百表、日本橋榑正町」と記してある。瞻淇の家督相続は次年戊午三月に至つて許された。
多紀氏宗家では暁湖元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《げうこげんきん》が此年十月二十七日に歿して、弟|棠辺元佶《たうへんげんきつ》
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