。わたくしは其一例として「嘉永明治年間録」の文を引く。「巷説阿部正弘遺体西福寺門内に入る、此時暴に大雷雨、雷震の為に西福寺焼失せり、此人亜船航海の時に当りて死を極め、北条氏が元使を斬るの志を継がば、執政の功且主家征夷の職と共に中興の大行立つべし、今疾病に死す、是れ天後人懲悪のため正弘が命を断す云云。」渡辺氏はこれを引いて、雷雨のみの事実なることを言つてゐる。正弘の浅草|新堀端《しんぼりばた》西福寺に葬られたのは、丁巳七月三日であつた。
 以上略記する所は正弘の病と死とに関する当時の流言である。此等は同世の人が既に其非を知つてゐた。矧《まして》や渡辺氏の史筆の如きものがあつて、遺憾なく辯駁してある。これに反して正弘の病を療した伊沢氏に関する流言は、今に至るまで猶これを信じてゐるものがある。わたくしはこれを辯じて置かなくてはならない。

     その三百三

 安政丁巳の歳に阿部正弘が病死した時、流言は其病を以て嗜酒好色の致す所となし、又天その攘夷を敢てせざるを悪《にく》み、送葬の日に雷火を降して寺院を※[#「くさかんむり/熱」、第4水準2−80−7]《や》くと云つた。此等の説の事実に乖《そむ》いてゐることは、渡辺氏の辨正するが如くである。流言は又正弘を療した伊沢氏に被及《ひきふ》して僻遠の地には今猶これを信ずるものがあるらしい。
 わたくしは朽木《くちき》三助と云ふ人の書牘《しよどく》を得た。朽木氏は備後国|深安郡《ふかやすごほり》加茂村|粟根《あはね》の人で、書は今年丁巳一月十三日の裁する所であつた。朽木氏は今は亡き人であるから、わたくしは其遺文を下《しも》に全録する。
「謹啓。厳寒之候筆硯益御多祥奉賀候。陳者《のぶれば》頃日《このごろ》伊沢辞安の事蹟新聞紙に御連載相成候由伝承、辞安の篤学世に知られざりしに、御考証に依つて儒林に列するに至候段、闡幽《せんいう》の美挙と可申、感佩《かんぱい》仕候事に御座候。」
「然処《しかるところ》私兼て聞及居候一事有之、辞安の人と為《なり》に疑を懐居《いだきをり》候。其辺の事既に御考証御論評相成居候哉不存候へ共、左に概略致記載入御覧候。」
「米使渡来以降外交の難局に当られ候阿部伊勢守正弘は、不得已《やむをえざる》事情の下に外国と条約を締結するに至られ候へ共、其素志は攘夷に在りし由に有之候。然るに井伊|掃部頭直弼《かもんのかみなほすけ》は早くより開国の意見を持せられ、正弘の措置はかばかしからざるを慨し、侍医伊沢良安をして置毒《ちどく》せしめられ候。良安の父辞安、良安の弟磐安、皆此機密を与《あづ》かり知り、辞安は事成るの後、井伊家の保護の下に、良安、磐安兄弟を彦根に潜伏せしめ候。」
「右の伝説は真偽不明に候へ共、私の聞及候儘を記載候者に有之候。若し此事真実に候はゞ、辞安|仮令《たとひ》学問に長《た》け候とも、其心術は憎むべき極《きはみ》に可有之《これあるべく》候。何卒詳細御調査之上、直筆|無諱《いむことなく》御発表相成度奉存候。私に於ても御研究に依り、多年の疑惑を散ずることを得候はゞ、幸不過之候。頓首。」
 わたくしはこれを読んで大に驚いた。或は狂人の所為《しよゐ》かと疑ひ、或は何人かの悪謔に出でたらしくも思つた。しかし筆跡は老人なるが如く、文章に真率なる処がある。それゆゑわたくしは直《たゞち》に書を作つて答へた。大要は阿部正弘の病死は蘭軒辞安の歿後十八年、榛軒長安の歿後五年の事であつて、正弘の病を療したのは榛軒にあらずして柏軒磐安である、父子三人皆彦根に居つたことがない、此説の虚伝なることは論を須《ま》たぬと云ふのであつた。わたくしは朽木氏の存在を疑つて、答書の或は送還せられむことを期してゐた。
 何ぞ料《はか》らむ、数週の後に朽木氏の訃音が至つた。朽木氏は生前《しやうぜん》にわたくしの答書を読んだ。そして遺言して友人をしてわたくしに書を寄せしめた。「御蔭を以て伝説に時代相違のあることを承知した。大阪毎日新聞を購読して、記事の進陟《しんちよく》を待つてゐるうち、病気が重体に陥つた。柏軒の阿部侯を療する段を読まずして死するのが遺憾だ」と云ふのであつた。
 按ずるに朽木氏の聞き伝へた所は、丁巳の流言が余波《なごり》を僻陬《へきすう》に留めたものであらう。

     その三百四

 わたくしは丁巳の歳六月十七日に阿部正弘が柏軒の治療を受けて世を去つたことを記した。中一日を隔てて、未だ喪を発せられざるに、棠軒が駿府に赴く命を拝した。正弘の喪は二十七日に至つて始めて発せられたのである。
 棠軒公私略にかう云つてある。「丁巳六月十九日隼人様駿府御加番御供在番被仰付。」隼人《はいと》とは誰か。わたくしは浜野氏に請うて旧記を検してもらつた。
 正弘六世の祖備中守|正邦《まさくに》の季《すゑ》の子に小字《せう
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