上|栄三《えいさん》の母と穉子《をさなご》とであつた。栄三の母は子を抱いて死んでゐた。其他同じ上屋敷の平井東堂の家では婢が一人死んだ。平井の事は前に渋江抽斎伝中に記した。後に大沼枕山の同人集を閲《けみ》するに、東堂の名が同人中に見えてゐる。是は当時知るに及ばなかつたから、今補記して置く。
 柏軒門下に松田道夫さんの来り投じたのは、恐くは此年であらう。松田氏は十七歳の時入門したと云ふからである。柏軒の門人は初め中橋に移り住んだ時、僅に三四人であつた。既にして松田氏の入門した頃は、諸藩の子弟にして来り学ぶものが頗《すこぶる》多かつた。塾生中の主なるものは掛川の宮崎健斎、上田の小島|順貞《じゆんてい》、対馬の塩田|良三《りやうさん》、弘前の小野道悦、福山の内田養三、斎木文礼、岡西養玄、家守某《いへもりぼう》、備中国松山の柳井柳仙、久留米の平川|良衛《りやうゑい》、棚倉の石川良宅、上野国高林の松本文粋、新発田《しばた》の寺崎某、山形の志村玄叔等で、其他猶津山、忍《をし》、庄内等の子弟があつた。此中既に一たび本篇に出でたものは塩田、小野、岡西の三人である。塩田良三は蘭門の楊庵が子、今の真《しん》さんである。小野道悦は蘭門の道秀富穀が子、岡西養玄は蘭門の玄亭徳瑛が子である。榛軒門人録に岡西玄庵があるが、是は玄亭の子、養玄の兄で、後癲癇のために業を廃した人である。柏門の養玄は後の岡氏寛斎である。
 松田氏の云ふには、柏軒に従遊した諸藩の子弟中、特に柏軒に学ぶことを藩主に命ぜられたものと、自ら択んで柏軒を師としたものとがあつた。松田氏は其母が福山の士太田兵三郎の姉であつたので、名望ある柏軒に見《まみ》えて贄《にへ》を執るに至つたのださうである。
 松田氏は現存せる柏門の一人で、わたくしは柏軒の事蹟を叙するに、多く此人の語る所に拠らうとおもふ。それゆゑわたくしは此にその未だ柏門に入らざる前の経歴を略記する。
 松田道夫の父は美濃国恵那郡岩村の城主松平(大給《おぎふ》)能登守|乗薀《のりもり》の医官で、江戸定府になつてゐた。道夫に姉があつて、父は此|女《むすめ》を医に妻《めあは》し、家業を継がしめようとしてゐた。それゆゑ道夫は儒たらむことを志して、同藩の佐藤一斎に師事し、旁《かたは》ら林述斎の講筵に列した。既にして一斎は幕府に召され、高足若山|勿堂《ふつだう》が藩文学の後を襲《つ》いだ。勿堂は阿波の農家の子で学を好み、一斎の門下にあつては顔淵の目《もく》があつた。勿堂は一斎が「勿視勿聴勿言勿動」に取つて命じたのである。此より後一斎は唯月に一たび松平邸に来つて経を講ずるのみであつた。道夫は既に学庸を一斎に聴いてゐたので、論孟はこれを勿堂に聴いた。当時道夫は父と共に本所三目の松平家中屋敷に住み、勿堂は鍛冶橋内の上屋敷にゐたので、道夫は本所より神田へ通つて学んだ。道夫は又同時に横網町の朝川善庵、薬研堀の萩原|緑野《りよくや》、引舟通の大橋|訥庵《とつあん》にも従遊した。此の如くにして十七歳に至つた時、父は道夫に家業を継ぐことを命じたのである。道夫の母の弟太田兵三郎は小此木伴七、鵜川庄三と共に江戸の阿部邸にあつて勘定奉行を勤めてゐた。

     その二百九十二

 此年安政乙卯に、頼氏では山陽の未亡人|里恵《りゑ》が歿した。年五十九である。後藤松陰の墓表に、里恵が修して梨影《りえい》に作つてある。初めわたくしは松陰が文を撰ぶに当つて、文字を雅馴《がじゆん》ならしめむとして改めたものかと疑つた。後山陽の書牘を見るに、梨影の二字は山陽が早く用ゐてゐた。
 此年乙卯に榛門の柴田常庵の同族、三十間堀の洛南柴田元春が歿した。わたくしは今|仁杉英《にすぎえい》さんの教を受けて、稍幕医柴田氏の事蹟を詳にすることを得たから、此に其概略を補叙しようとおもふ。
 江戸の唖科《あくわ》柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖《なうそ》、名は直教《ちよくけう》と云つた。直教の子が直儀《ちよくぎ》、直儀の子が賢《けん》、賢の二子が元泰《げんたい》元徳《げんとく》である。
 元泰、名は直為《ちよくゐ》、字《あざな》は子温《しをん》、東皐《とうかう》と号した。曾祖父直教が早く寛永貞享間に名を成し、直為に至つて幕府に仕へた。林述斎の墓誌に、「遂以天明四年、賜謁大廷、尋而執技出入城中者数年、至享和元年、擢入西城医院、叙法眼位」と云つてある。述斎の家は此人の病家であつた。元泰直為は文化六年十一月二十四日七十二歳で歿した。
 元泰直為の後を襲いだものが元岱直賢《げんたいちよくけん》である。字《あざな》は英卿《えいけい》又|可久《かきう》、竹渓と号した。鞠翁《きくをう》は其致仕後の称である。林復斎が其官歴を叙してゐる。「文化五年九月襲家秩。為西※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]侍医。
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