名残狂言らしくおもはれ、名残狂言の勧進帳が壬子の年に演ぜられたと聞いてゐるからである。しかし今わたくしの手元には演劇史料となるべき書は殆ど一部も無い。寿海の名残狂言の年は果して壬子であつたか。壬子ならば其何月であつたか。名残狂言の中幕に勧進帳を出した後に、四世|薪水《しんすゐ》が果して大功記を演じたか。凡そ此等の事は、極めて知り易かるべきものでありながら、わたくしはこれを検することを得ない。
わたくしは姑《しばら》く此に二三の推測を附記して置く。其一は勧進帳の演ぜられた劇場である。彼勧進帳が若し寿海の名残狂言であつたなら、是は塩田氏の談を書き取つた渋江氏の云ふ如く、必ずや河原崎座であつただらう。
其二は彼勧進帳が壬子の年の何《いづ》れの月に演ぜられたかと云ふことである。これを観た一行に榛軒が加はつてゐたことをおもへば、その九月以前なるべきことは勿論である。榛軒は十月に大病に罹つて、十一月に歿したからである。爰《こゝ》に寿海の榛軒に与へた一通の書牘があつて、是も亦文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐる。其文はかうである。「新春の御祝儀万々歳御目出度、兼々御揃被遊御機嫌様宜しく入らせられ大寿至極恐悦奉申上候。誠に昨年の御蔭にて子も親もうち揃ひ、本の目出たき春に出勤仕候。有難々々御厚礼奉申上候。扨又父子へ御肴料として金五百疋御祝ひ被下、恐入々々頂戴仕候。坂の若先生昨日わざ/\御持参被成被下奉恐入候。十三日に初日出申候。ことに此度は悴事朝より出つづけにて、幕間《まくあひ》も取込居り候間、失礼ながら老筆にて御礼の御受申上候。且又|先達《せんだつて》より悴が一寸申上置候よし、甚だ※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]末《そまつ》のささ折奉御覧入候。御笑味奉願上候。どうか此度は是非々々御見物願上候。甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候。乍恐御悦被遊可被下候。何とぞ/\御奥様へも山々よろしく願上候。可祝《かしく》。十五日。寿海老人白猿拝。井沢先生様。」文の首《はじめ》に「新春の御祝儀」と云ふより見れば、「十三日」は正月十三日である。榛軒が金を餽《おく》つて賀し、寿海が必ず来り観むことを請ふを見れば、此興行は廉《かど》ある興行でなくてはならない。「子も親もうち揃ひ本の目出たき春に出勤仕候」は富樫辨慶で、「甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候」は其富樫ではなからうか。若し然らば寿海の名残狂言の勧進帳は、壬子の年の春狂言で、其初日は正月十三日であつただらう。又寿海は辛亥の年に病んで榛軒の療治を受けたものとおもはれる。金を寿海の家に齎した「坂の若先生」とは誰か。若し柏軒ならば、何故に「坂」と云ふか。或は「若先生」は清川安策で、父玄道あるが故に云つたものか。
以上記し畢《をは》つた後、近世日本演劇史と歌舞伎新報とを小島政二郎さんに借りて看た。七世団十郎は壬子の九月と十一月とに勧進帳を演じた。新報に拠るに、一世一代は前者であつた。然れば団十郎父子の正月に演じた狂言は別である。四世薪水の大功記の事は演劇史に見えない。是等は根本資料に泝《さかのぼ》つて検せなくてはならない。
尋で小島氏は豊芥子の歌舞伎年代記続編嘉永五年の下《もと》に、四世薪水の大功記が「十一月七日より顔見世」になつたと云つてあることを報じた。しかし蘭丸は猿蔵でなくて市蔵になつてゐたさうである。是に於て壬子九月に榛軒が勧進帳を観、十月若くは十一月初に塩田、矢島が寿海の家を訪うたことが明なるに至つた。
その二百六十六
わたくしは此年嘉永壬子十一月十六日に榛軒の歿したことを叙し、次に編日の記を続いで歳暮に至り、最後に壬子年間の事にして月日を詳にせざる塩田氏の観劇談に及んだ。然るにわたくしの獲た所の資料中には、榛軒に関する事蹟にして年月日の下《もと》に繋くべからざるもの、若くは年月日不詳なるものが数多《すうた》有る。そして其大半は曾能子刀自の記憶する所である。榛軒は蘭軒の継嗣であるのに、同藩の人々と雖も、その平生を悉《つく》してゐるものが無い。是には後に記すべき弟柏軒に比するに、其生涯の波瀾に乏しかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。又蘭軒は著述を喜ばなかつたとは云ひながら、猶若干の文字を後に貽《のこ》したのに、榛軒に至つては殆ど全く筆墨を弄せなかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。榛軒の人となりの知り難いこと既に此の如くである。わたくしの獲た所の零砕の資料も、これを思へば軽々しく棄てられぬのである。
しかし此資料はわたくしをして頗る整理に艱《なや》ましめる。わたくしは已むことを得ずして一種の序次なき序次を立てた。そして先づ年中行事より筆を著ける。
榛軒の世には新年の発会が盛であつた。来り会するものは約百人であつた。時刻は午前より夜に及ん
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