て生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子が天津《てつ》長《ちやう》順《じゆん》である。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。
略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々の言《こと》に従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助は※[#「くさかんむり/姦」、7巻−46−下−1]斎《かんさい》詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。
上《かみ》に記した外、名録には尚庶出の女《ぢよ》二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿した万知《まち》である。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。
蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏の出《しゆつ》である。それゆゑ蘭軒の妻は小母婿《をばむこ》の子ではある。姑夫女《こふぢよ》ではある。しかし小母の女《むすめ》では無い。姑女では無い。
蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目に纔《わづか》に生れたのである。蘭軒より少《わか》きこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。
此年に蘭軒の友小島春庵|尚質《なほかた》の父春庵|根一《もとかず》が歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。
その二十四
此年享和三年に蘭軒の父|信階《のぶしな》の仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守|正倫《まさとも》が十月六日に病に依つて致仕し子|主計頭正精《かぞへのかみまさきよ》が家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒《そうけん》と号した。世子《せいし》たりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭|※[#「米+胥」、第4水準2−83−94]銭《しよせん》を併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。所謂《いはゆる》不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子の坦率《たんそつ》を見る。
正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶《たこ》の上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※[#「「纒のつくり+おおざと」、7巻−48−上−9]塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花に菘字《しゆうじ》を用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、奉贈《ほうぞう》と云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山が神辺《かんなべ》の菅波久助の倅|百助《ひやくすけ》であつたことは、行状にも見えてゐるが、頼の頼兼《よりかね》を知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。
三月にな
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