自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。
 此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将|斉朝《なりとも》の市谷門外の上屋敷が其|易簀《えきさく》の所であらう。諸侯の国政を与《あづか》り聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡《かうかん》、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。
 此年には猶多紀氏で蘭軒の友|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《りうはんさいてい》の祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森|枳園《きゑん》の祖父|伏牛《ふくぎう》が歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。
 享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達《ちやうたつとがうす》、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四|人《たり》は余常汝爾之交《よつねにじよじのまじはり》を為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問|合読《がふどく》なすとてゐたりしに、卿雲おもはずも訪《とぶら》ひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何《いかに》と問ぬ。二人そもよかるべしと、三|人《たり》して手紙|認《したゝめ》し折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、午《ひる》の飯《いひ》たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺《あたり》、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直《すぐ》なる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしは且《しばら》く「享和之二二月」と読んで置く。
 秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺|東河《とうか》、清水|泊民《はくみん》、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、赤尾|魚来《ぎよらい》の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭《はう》、字《あざな》は文平、一号は払石《ふつせき》である。書を源《げん》東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
 享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越《うちごし》古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜《ちゆうぎ》、当時の菓子商|主水《もんど》である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和|閏《うるふ》正月」と記し、下《しも》三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑《しばら》く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
 此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
 蘭軒雑記に拠れば、所謂《いはゆる》浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監|鑑寿《あきひさ》の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。

     その二十三

 此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂《ばんさんだう》に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜《たし》み、篆刻《てんこく》を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲《けみ》するに降灰《かうくわい》の事を載せない。
 蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男|榛軒《しんけん》が生れたからである。蘭軒には榛軒に先《さきだ》つ
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