。
柏軒の書は多く存じてゐない。其一通は此月二十六日に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎を訪うた事を報じたものである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は病が新に※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えてゐた。柏軒は隋書を講ぜむことを※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に請うた。
二十九日には榛軒が既に大坂蔵屋敷に著いて書を発してゐる。再び妹長の病を問ふ語がある。
此月に柏軒の兄に贈つた一紙の文がある。尋常の柬牘《かんどく》ではない。柏軒の人となりを知るに便なるものがあるから、此に全文を写す。「俗情険渉千層波。時事危登百尺竿。頼有西窓書一架。暖風晴日閉門看。右于革寄陳時応。前句は大兄の身、後句は小人の身に有之候。大兄の心配は身を安んずるに地なき程の事、察して言ふこと能はず候。其に引きかへ、小人暖衣飽食は勿論、外にあれば朋友親信し、内にあれば姉妹安和し、又願の通病人もなく、十分の清間を得、十分に読書し、又其暇に書房にて雪堂と小音《せうおん》にて浅間を語り、放言し、脚炉足を※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶ》り、床褥《しやうじよく》の上に在て茶菓を健啖し、誠に無上の歓楽、宇宙の内何の事か之に如《し》かむ、実に恐ろしき程の事、罰にても当らむかと、其のみ苦にし候。右に付小弟次第に譫語《せんご》す、宜しく妄聴し給はる可く候。先づ大兄は先大人《せんたいじん》の子と云所から、弱冠にして登庸せられ候。正大《せいだい》の直言をし、罪を被り帰されても宜しく候。しかし是は侍の事にて、帰されても外にも忠臣ある故、格別に事を闕かず、立派の忠臣也。私愚案の真の忠臣は、大兄の角力のやうに致したきものなり、何分にも打つてもはたいても、地震があらうが雷が落ちようが、粘り附き絡み附き放さず、縦令《たとひ》親父の名を汚す役に立ずと云はれても、なんでも詬《はぢ》を忍んで主君の玉体を見届けるが理《り》長《ちやう》ずるかと存じ候。即ち腹でする忠臣なり。かやうな事は千百年以前に御存知ゆゑ、言うても言はいでもの事を、はれ、やくたいもない。」大要謂ふ。士は員数多きが故に、偶《たま/\》自ら潔《いさぎよ》くするものあるを妨げない。医は替人《ていじん》なきが故に、必ず隠忍して其任を全うしなくてはならないと云ふのである。兄を諷して此|言《こと》を作《な》すを見ても、柏軒の機智のあることが知られる。雪堂の誰なるかは未だ考へない。黒沢雪堂は六年前文政七年に六十八歳で歿してゐるから、その別人なること勿論である。或は清水|浜臣《はまおみ》門の堀内雪堂ではなからうか。柏軒は国学者に交つて歌を詠んだ人である。
その百九十八
荏薇《じんび》問答は此年天保元年十一月に入つて、先づ六日の榛軒の書を載せてゐる。阿部|正寧《まさやす》の福山城に入る前日の書である。書中人の目を惹くものは唯二件あるのみである。其一は榛軒の妹長の病で、榛軒は「治療を清川に託せよ」と云つてゐる。長が荏苒《じんぜん》として愈《い》えなかつたことと、榛軒が清川玄道の技倆に信頼してゐたこととが知られる。其二は七世市川団十郎の評判で、榛軒は「三升の評判好きことを養竹に伝へよ」と云つてゐる。按ずるに所謂評判は団十郎去後の評判でなくてはならない。何故と云ふに庚寅の歳には、団十郎は早く大坂を立つて、京都、古市を経て、八月中に江戸に還つてゐたからである。しかし劇の沿革も亦わたくしの詳《つまびらか》にせざる所であるから、若し誤があつたら、其道に精《くは》しい人の教を乞ひたい。
七日には正寧が福山城に入つた。此日の榛軒の書は親戚故旧の名を列記して、柏軒に「致声《ちせい》」を嘱したに過ぎない。
十四日の榛軒の書には、書を作るに臨んで眼前の景を叙したと云ふ詩がある。「山城寂々五更初。愁緒千条不展舒。月苦風寒狐叫処。青燈火下写家書。」柏軒をして問安せしめた二十余人の中に、「小島|学古《がくこ》」がある。
十九日には江戸で柏軒が劇を看て、これを兄に報じた。「木挽町の芝居見物、三升の暫なり」と云つてある。同行者は「渋江夫婦、小野親子、多多羅、有馬、てる、なべ町娘《ちやうむすめ》」と記してある。渋江抽斎の挈《たづさ》へて往つた妻は比良野氏|威能《ゐの》で、前年己丑に帰《とつ》いで、次年辛卯には死ぬる女である。小野親子は令図《れいと》富穀《ふこく》であらう。多多羅は辨夫《べんふ》、有馬は宗緩《そうくわん》であらう。二人の女の誰なるを知らない。
二十四日には柏軒が兄に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》俊《しゆん》の病を、「容態宜からず」と報じてゐる。
二十六日に榛軒が弟に与ふる書は、未だ俊の病を知らざるものゝ如く、却つて其兄の病を問うてゐる。「少
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