にして兄の前に進み、諫めて云つた。人には気血動くの年がある。霊枢年忌の論は恰も我俗に所謂厄年と符してゐる。兄上は今年其時に当つてをられる。聞けば矢の倉の発会に酔《ゑひ》に乗じて争論せられたさうである。是は気血動くの致す所である。願はくは深く自ら※[#「にんべん+敬」、第3水準1−14−42]《いまし》めて過を弐《ふたゝ》びせられぬやうにと云つた。そして霊枢を開いて「陰陽二十五人篇」を読んだ。
 榛軒は弟の面を凝視すること良《やゝ》久しく、言はむと欲する所を知らざるものの如くであつた。それは柏軒にして此|言《こと》をなすことを予期せなんだからである。
 柏軒は幼時好学を以て称せられてゐた。然るに漸く長じて放縦になり、学業を荒棄し、父兄の戒飭《かいちよく》を受けて改めなかつた。榛軒が柏軒に諫めらるることを予期せなんだ所以である。
 既にして榛軒は思ふ所あるが如くにして云つた。弟、善く言つてくれた。己は言ふ所の事の是非を思つて、これを言ふことの不可なるには思ひ到らなかつた。その持つて来た霊枢を己に譲つてくれい。是は永く忠言を記して忘れぬためだ。己は又お前に此霊枢を贈つて報とする。
 言ひ畢《をは》つて架上の書を取つて柏軒に与へた。同じく是れ霊枢の一書であるが、父蘭軒の手校本である。
 柏軒の退いた後、榛軒は折簡して諸友を招いた。書中には、僕の家に慶事あり、諸君と喜を同じうせむと欲す云云の語があつた。

     その百八十三

 わたくしは松田氏の云ふ所の柏軒立志の事を以て、此年文政十一年正月の下に繋《か》くべきものとした。わたくしは先づ柏軒が兄榛軒を諫めたことを語つた。榛軒が多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》の家に於て、被酒《ひしゆ》して人と争つたのを聞き、霊枢年忌の文を引いて諫めたのである。榛軒は諫を納れ、弟の持ち来つた霊枢を乞ひ得て、弟に授くるに父蘭軒の手づから校する所の霊枢を以てした。
 尋で榛軒は諸友を招いて宴を開き、柏軒をして傍《かたはら》に侍せしめ、衆に告げて云つた。今日諸君の賁臨《ひりん》を煩はしたのは、弊堂に一の大いに喜ぶべき事があつて、諸君に其慶を分たむがためである。家弟|信重《のぶしげ》は此両三年行に検束なく、学業共に廃してゐた。然るに今春わたくしが※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭先生の発会の日に当つて、飲酒量を踰《こ》え、無用の言説を弄した。信重は霊枢を引いてわたくしを諫めてくれた。わたくしは其切直の言を聞いて、始て信重が志操の疇昔に殊なるを知つた。之子《このし》の前途にはもはや憂慮すべきものが無い。わたくしは諸君と共に刮目して他年の成功を待たうとおもふ。
 柏軒はこれを聞いて、汗出でて背《そびら》に浹《とほ》つた。此日の燕集が何のために催されたかは、その毫も測り知らざる所であつた。柏軒は此より節を折つて書を読んだと云ふのである。
 柏軒は後|屡《しば/″\》人に語つて、「己は少《わか》い時無頼漢であつた」と云つた。志気豪邁にして往々細節を顧みなかつたのださうである。然るに一朝|擢《ぬきん》でられて幕府の医官となり、法眼に叙せられ、閣老阿部正弘の大患に罹るに及んでは、単身これが治療に任じ、外間謗議の衝に当つた。全く是れ榛軒が激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《げきれい》の賜であつた。
 此事は独り松田氏が聞き伝へてゐるのみではなく、渋江保さんの如きも母|五百《いほ》に聞いて知つてゐる。しかしその何《いづ》れの年にあつたかを詳《つまびらか》にしない。或は蘭軒歿後の事だとも云ふ。わたくしは敢て其時を推窮して戊子の正月とした。按ずるに蘭軒の歿前一二年間の事は、口碑に往々伝へて歿後の事とせられてゐる。彼榛軒|合※[#「丞/巳」、7巻−359−上−9]《がふきん》の時の如きもさうである。榛軒が弟を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]した時も亦此類ではなからうか。
 然らばわたくしが戊子とするのは何に拠るか。わたくしは霊枢の文に就いて考ふるのである。柏軒は兄を諫むるに霊枢の「陰陽二十五人篇」を引いた。二十五人とは金木水火土の五形を立し、其五色を別つて二十五人とする。木形に上角《しやうかく》、大角、左角、※[#「金+大」、第3水準1−93−3]角《ていかく》、判角あり、火形に上徴《しやうちよう》、質徴、少徴、右徴、質判《しつはん》あり、土形に上宮《しやうきゆう》、大宮、加宮、少宮、左宮あり、金形に上商《しやうしやう》、※[#「金+大」、第3水準1−93−3]商《ていしやう》、左商、大商、少商あり、水形に上羽《しやうう》、大羽、少羽、衆、桎《ちつ》がある。西洋の古い病
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