所蔵不過緊要必読之書。然皆古刻旧鈔。審定真本而蔵之。是正学蔵家所銓択也。要之雖有醇※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2−90−40]之別。非有識見。則不能為銓択矣。」
蘭軒は八十九年前に於て此|言《こと》をなした。然るに今の蔵家を観るに二派は猶劃然として分れてゐる。
方今校刻の業盛に興つて、某会某社と称するもの指|※[#「てへん+婁」、7巻−355−上−8]《かゞな》ふるに遑《いとま》あらざる程である。若し貲《し》を投じ盟に加はつてゐたら、立どころに希覯《きこう》の書万巻を致さむことも、或は難きことを必《ひつ》とせぬであらう。
独り奈何《いかん》せむ、彼諸会社は皆正学と好事との二派を一網打尽せむと欲してゐる。世間好事者の多いことは、到底正学者の比ではない。それ故に会社が校刻書目を銓択するときに、好事者の好に投ずるものが十の八九に居る。その甚しきに至つては初め正学者の用をなすもの一二部を出して、後全く継刊せざるにさへ至る。洵《まこと》に惜むべきことの甚だしきである。
わたくしの如きは戯曲小説の善本を相応に尊重するものである。多少の好事趣味をも解するものである。しかし書を求むるには自ら緩急がある。限ある財を以て限なき書を買ふことは出来ない。矧《いはむ》や月ごとに数十金を捐《す》てて無用の淫書を買ふは、わたくしの能く耐ふる所でない。
且|啻《たゞ》に兎園稗史《とゑんはいし》を排すべしとなすのみでは無い。史伝を集刊すると称して、絵入軍記を収め、地誌を彙刻すると称して名所図絵を収むるが如きも、わたくしは其意の在る所を解するに苦む。書を買つて研鑽の用に供せむと欲する少数者は、遂に書を買つて娯楽の具となさむと欲する多数者の凌虐《りようぎやく》に遭ふことを免れぬのであらうか。
設《も》し此に一会社の興るあつて、正学一派のために校刻の業に従事し、毫も好事派を目中に置かなかつたら、崇文盛化《そうぶんせいくわ》の余沢《よたく》は方《まさ》に纔《わづか》に社会に被及《ひきふ》するであらう。
仄に聞けば、頃日《このごろ》暴富の人があつて、一博士の書を刊せむがために数万金を捐《す》てたさうである。わたくしは其書の善悪を知らぬが、要するに一家言である。これに反して経史子集の当《まさ》に刻すべくして未だ刻せられざるものは、その幾何《いくばく》なるを知らない。世に伝ふる所の松崎|慊堂《かうだう》天保十三年の上書《じやうしよ》がある。安井息軒のこれに跋するを見れば、当時徳川家斉の美挙は俗吏|賈豎《こじゆ》の誤る所となつたらしい。「潜聴於四方、所刻率誤本俗籍。所謂盛典。半為賈豎射利之挙。」そして慊堂の刻せむと欲した五経、三史、李善註文選《りぜんちゆうもんぜん》、杜氏通典《としつうてん》だに、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて未だ善本の刻せらるるを見ぬのである。「今此十余種者。半蔵於秘府。固非人間所得窺。而其存於侯国及人家僧院者。地有遠近。人有繁間。苟不梓而広之。其目覩之者能幾人。則雖存猶亡爾。」世|遷《うつ》り時|易《かは》つて、楓山《もみぢやま》文庫は内閣文庫となり、政府と自治体と競つて図書館を起しても、市に善本なきことは今猶古のごとくである。
その百八十二
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−356−下−4]斎詩集には此年文政十年の冬唯七絶二首があるのみである。一は「篠池冬晴」、一は「観猟」で、恐くは皆課題の作であらう。
此年蘭軒五十一歳、妻益四十五、榛軒二十四、常三郎二十三、柏軒十八、長十四であつた。榛軒の妻勇は其|齢《よはひ》を詳にしない。勇の所生《しよせい》の幼女れんは当歳である。
文政十一年の蘭軒歳首の詩は、前年丁亥の事を叙せむがために、上《かみ》に其註を引いたが、今此に全篇を録する。「戊子元日作。満城晴雪映朝暾。恰是豊祥属正元。笑語熈々春自返。風烟軟々意先暄。家貧猶愛新増帙。身老尤忻初挙孫。別有間遊宜早計。梅花香発遍林園。第五註、客歳十二月元彫千金翼方影鈔卒業、第六註、十一月児厚挙女子、第七八註、臘前梅花半開、信頗異於常年。」
正月九日の草堂集は例の如くであつた。「山荘春色雪初融。軽暖軽寒梅下風。何識佳賓来満坐。新年勝事属衰翁。」
わたくしは蘭軒の三男柏軒立志の事を松田道夫さんに聞いた。道夫さんは曾て医を柏軒に学んだ人である。そしてわたくしは聞く所の事の是正月の下《もと》に繋《か》くべきものなるを謂《おも》ふ。此に先づ聞く所を叙することとする。
某《それ》の歳|多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》の発会の日に、蘭軒の嫡子榛軒は酒を被《かうむ》つて人と争つた。柏軒はこれを聞いて、霊枢《れいすう》一巻を手
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