旧に復せむと欲するものは、往々にして有つた。
先づ宋の太宗の太平興国八年に成つた太平御覧に本草経の文を引くものが頗《すこぶる》多い。是は十世紀の書で、蘇敬以後の文は此中に夾雑して居らぬのである。御覧には由来善悪本がある。曾て北宋|槧本《ざんほん》に就いて本草経の文を抄出し、「神農本草経」と題したもの一巻がある。躋寿館医籍備考本草類《せいじゆくわんいせきびかうほんざうるゐ》の首に収めてあるものが是である。
しかし此所謂神農本草経は完本では無い。引用文を補綴《ほてつ》したものに過ぎない。
次に明の慮不遠《りよふゑん》が医種子中に収めた「神農本草経一巻」がある。此書は我邦《わがくに》に於ても、寛保三年と寛政十一年とに飜刻せられた。しかし慮は最晩出の李氏本草綱目中より白字を摘出したるに過ぎない。
次に清の嘉慶中に孫伯衍《そんはくえん》及鳳卿の輯校する所の「神農本草経」がある。是は唐氏証類本草に溯つてゐる。しかし編次|剪裁《せんさい》の杜撰《づさん》を免れない。
凡そ古本草経に就いて存旧若くは復旧を試たものは以上数種の外に出でない。それ故わたくしは蘭軒が何《いづ》れの書を講じたかを究めむと欲して、大いに推定の困難を感ずる。蘭軒の講ずべき書を此中に求めむことは、殆ど不可得《ふかとく》である。
わたくしは敢て此に大胆なる断案を下さうとおもふ。それはかうである。
蘭軒の講じた神農本草経は既成の書では無い。諸友人諸門人と倶に北宋本太平御覧、我国伝ふる所の千金方、医心方等に就いて、その引く所の文を摘出し、自ら古本草経のルコンストリユクシヨンを試た。講ずる所の本草経は此未定稿本である。
わたくしは当時の稿本のいかなるものであつたかを想像して、略《ほゞ》後に森枳園の著した「神農本草経」に似たものであつただらうとおもふ。是は枳園著作の功を狭《せば》めようとするのでは無い。宋本御覧や、千金方や、医心方や、其中に存ずる所の古本草経の遺文は学者の共有に属する。問題はいかにこれを編次して唐以前の体裁に近づかしむるかに存ずる。蘭軒は或は多く此に力を費さなかつたかも知れない。わたくしは嘉永七年に成つた枳園本の体裁が、全く枳園自家の労作に出でたと云ふことには、敢て恣《ほしいまゝ》に異議を挾《さしはさ》まうとはしない。
わたくしは只|※[#「くさかんむり/姦」、7巻−324−上−13]斎《かんさい》詩集に見えてゐる本草経が或は枳園の本草経に似た未定稿本であつたのではなからうかと云ふのみである。わたくしは蘭軒が慮氏孫氏等の本を取つて講じたとは信じ難いがために、推理の階級を歴《へ》て此断案に到著したのである。
その百六十五
此年文政七年の十二月には二つの記すべき事がある。一は蘭軒の主家に於て儲君阿部寛三郎|正寧《まさやす》の叙位任官の慶《よろこび》があつたことである。事は次年歳首の詩の註に見えてゐる。阿部家に此慶のあつたことと、彼弘安本古文孝経の刻成せられたこととは、蘭軒の重要視する所であつたので、其詩にも入つたのであらう。詩註に云く。「客歳十二月十六日。世子叙従五位下。任朝散大夫。公旧蔵弘安鈔本古文孝経孔伝。客歳命工※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]刻。故詩中及之。」今一つは二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことである。勤向覚書の文は略する。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−324−下−14]斎詩集には此年の冬詩四首がある。其最初なるものが上《かみ》に云つた本草経竟宴の詩で、最後なるものが「歳晩書懐」の絶句である。「貧富人間何互嗤。不知畢竟属児嬉。春風一促紙鳶去。落地凌霄彼一時。」中間に「自笑」と題する一絶一律がある。並に皆貧に安んじ分を守つて、流俗の外《ほか》に超出すること、歳晩の詩と相類してゐる。わたくしは四十八歳の蘭軒の襟懐を示さむがために、此に両篇を採録する。七絶。「詩句未嘗得好音。※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]嚢常是絶微金。村醪独酌醺然後。嶽々亢顔論古今。」七律。「生来未歩是非関。身在世途如在山。心淡時随茶讌後。量微猶混酒徒間。緯紗冬夜談経坐。杜曲春風買笑還。誇道我元無特操。優游已到※[#「髟/兵」、第3水準1−94−27]毛斑。」
菅氏では茶山が此年七十七歳になつた。頼山陽が母|梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》を奉じて来り宿したのが十月十五日で、中の亥の日に当つてゐた。「※[#「米+滋のつくり」、第4水準2−84−1]※[#「米+羔」、第3水準1−89−86]祭亥市童喧。只祝郷隣産育繁。恰有潘郎陪母至。問来独樹老夫村。」茶山が山陽の父叔完疆柔《ふしゆくくわんきやうじう》の三人を品題したのも此年である。「兄弟三人並風流。二随
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