り》新居の壬午の歳に成つたことを思はしむる一事である。霞亭は妻孥と共に一たび阿部邸の長屋に入り、居ること久しうして後、始て嚢里に移つたらしい。嚢里の詩中「移居入秋初」の句は此に由つて始て矛盾を免れる。そして八月九日は必ずしも霞亭一家の江戸に著いた日とはせられない。木犀舎祖筵の月は猶疑を存して置かなくてはならない。
 わたくしは姑《しばら》く此に嚢里のトポグラフイイを記して置く。浜野氏の故旧に聞く所に拠れば、霞亭が嚢里の家は今の本郷区駒込西片町十番地「ろ部、柳町の坂を上りたる所、中川謙次郎氏の居所の前辺《まへあたり》より左に入りたる」袋町《ふくろまち》であつたさうである。

     その百六十三

 此年文政七年の冬に入つてより、蘭軒は十月十三日に本草経竟宴《ほんざうきやう/\えん》の詩を賦した。竟宴には宿題があつて、蘭軒は※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]冬《くわんとう》を詠じた。其七絶は※[#「くさかんむり/姦」、7巻−321−上−5]斎《かんさい》詩集に見えてゐるが、此には省《はぶ》く。
 蘭軒が講じた本草経とはいかなる書か。是は頗るむづかしい問題である。支那の文献を論ずることが、特にわたくしの難《かた》んずる所なるは、既に数《しば/\》云つた如くであるが、此問題の難いのは独りわたくしの知識の足らざるがために難いばかりではない。
 本草経の所謂神農本草経であることは論を須《ま》たない。しかし当時此名の下に行はれてゐて信頼すべき書は存在してゐなかつた。是故《このゆゑ》に上《かみ》の問題を反復して、「蘭軒が講じた神農本草経とはいかなる本か」と云ふに至つて、わたくしの以て難しとする所は始て明になるのである。
 本草の書の始て成つたのは、その何《いづ》れの時なるを知らない。漢書は藝文志に本草を載せずして、只|平帝紀《へいていのき》に其名が見えてゐる。前人は本草の著録は張華《ちやうくわ》華佗《くわだ》の輩の手に出でたであらうと云つてゐる。隋書以下の志が方《まさ》に纔《わづか》に本草経を載せてゐる。その神農の名を冠するは猶|内経《ないけい》に黄帝の名を冠するがごとくである。
 神農本草経には三巻説と四巻説とがある。そして四巻説が正しいらしい。即ち上中下と序録一巻とがあつたと云ふのである。
 既にして後人が交《こも/″\》起つてこれを増益した。そして原文と諸家の文とが混淆した。多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》は「爾後転輾附益非一、而旧経之文、竟併合于諸家書中、無復専本之能伝于後矣」と云つてゐる。即ち専本《せんほん》が亡びたのである。
 諸家の増益は端《たん》を梁の武帝の時に成つた陶隠居の集註に発《ひら》き、次で唐の高宗の顕慶中に蘇敬の新修本草が成つた。又唐本草とも云ふ。是は七世紀の書である。
 次に宋の宣宗の元祐中に唐慎微《たうしんび》の撰んだ証類本草《しようるゐほんざう》がある。是は十一世紀の書である。
 次に徽宗の大観二年に艾晟《かいせい》の序した大観本草がある。又大全本草とも云ふ。是が十二世紀の書である。
 次に南宋神宗の嘉泰中に成つた重修本草《ちようしうほんざう》がある。是が十三世紀の書である。
 且此等の書は一も原形を保存することを得ずして、唐の書は宋人に刪改《さんかい》せられ、北宋の書は南宋人に、南宋の書は金元明人に改刪せられた。
 明の万暦丙午に至つて李時珍《りじちん》の本草綱目が成つた。是が十七世紀の書である。
 凡そ此等の書の中には、初め古《いにしへ》の本草経が包含せられてゐた。しかし其一部分は妄《みだり》に刪《けづ》られて亡びた。唯他の一部分が※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭《けいらん》の雑草中に存ずるが如くに存じてゐる。そして其前後の次第さへ転倒せられてゐる。
 此混淆|糅雑《じうざつ》は固より歴代の学者が意識して敢て為したのでは無い。故に右の諸書には初め朱墨の文が分つてあり、後尚白墨の文が分つてあつた。惜むらくは其赤黒と白黒とが互に錯誤を来して、復辨ずべからざるに至つたのである。
 然るに唐以前の本草の旧を存ぜんと欲し、乃至唐以前の本草の旧に復せんと欲したものも亦絶無ではない。わたくしの談は此より古本草復活の問題に入るのである。

     その百六十四

 此年文政七年十月十三日に蘭軒は本草経竟宴の詩を賦した。わたくしはその講ずる所の本草経のいかなる書なるかを究《きは》めむと欲して、先づ古《いにしへ》の本草経の復専本《またせんぽん》を存ぜざることを言つた。それは原文が後人補益の文と交錯して辨別し難きに至つたのである。
 専本は既に亡びた。しかし猶唐以前の旧を存ぜむと欲し、又唐以前の
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