へてゐた。林間の遺礎《いそ》は僧|涌蓮《ゆれん》が故居の址である。樵歌に「宅西竹林、偶見有遺礎、問之土人、云是師(涌蓮)故居、廃已久矣」と云つてある。涌蓮、名は達空《たつくう》、伊勢国一|身田《しんでん》の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集《ししがんしふ》を遺して終つた。
霞亭の居る所の草堂を幽篁書屋《いうくわうしよをく》と云ふ。「脩竹掩幽籬」と云ひ、「隣寺暮春静」と云ふ、並に凹巷が詩中の句である。「竹裏成村纔両隣」と云ひ、「隣是樵家兼仏寺」と云ふ、皆霞亭が書屋雑詠中の句である。堂の一隅に前主人の遺す所の紙屏《しへい》一張がある。西依成斎《にしよりせいさい》が朱元晦《しゆげんくわい》の「酔下祝融峰作」を題したものである。「我来万里駕長風。絶壑層雲許盪胸。濁酒三杯豪気発。朗吟飛下祝融峰。」成斎、初の名は正固《せいこ》、後|周行《しうかう》、字《あざな》は潭明《たんめい》、通称は儀平《ぎへい》、肥後の人で京都に居つた。樵歌《せうか》には「祝」が「※[#「示+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻−291−上−6]」又「※[#「木+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻−291−上−6]」に作つてある。字書に※[#「示+兌」、7巻−291−上−6]《ぜい》、※[#「木+兌」、第3水準1−85−72]《せつ》の字はあるが、峰《ほう》の名は祝融《しゆくゆう》であらう。霞亭は朱子に次韻した。「勃々豪情欲起風。銀杯一掉灑書胸。胸中韜得乾坤大。何屑祝融千万峰。」
堂に書幌《しよくわう》が垂れてある。恒心社同人の贈る所で、「冢不騫写大梅、韓君聯玉題詩其上」と云つてある。冢不騫《ちようふけん》、名は寿《じゆ》、大塚氏、不騫は其|字《あざな》、信濃国|奈賀郡《なかごほり》駒場駅《こまばえき》の人である。
移居当時の客宇清蔚が辞し去つた時、霞亭は送つて京の客舎に至つた。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」
中の閏《じゆん》二月を隔てて、三月二十八日に凹巷が伊勢から来た。凹巷は「命駕我欲西、好侶況相追、君亦出都門、望々幾翹跂」と云つてゐる。霞亭は粟田口の茶屋まで出迎へたのである。「痴坐亭中晩未回。先虚一榻預陳杯。眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出来。」
所謂好侶は田伯養《でんはくやう》、孫孟綽《そんまうしやく》、河良佐《かりやうさ》、池希白《ちきはく》である。樵歌に云く。「韓聯玉曾有訪予幽篁書屋之約。田伯養、孫孟綽従其行。適河良佐、池希白役越後。抂程亦偕聯玉輩。一斉入京。」霞亭が此日の詩に、「壮遊人五傑、快意酒千鍾」の句がある。所謂五傑中、韓凹巷、河敬軒《かけいけん》の二人を除いて、他の三人はわたくしのためには未知の人である。只田の名は光和《くわうくわ》、孫の名は公裕《こうゆう》で、孫は自ら凹巷の内姪《ないてつ》と称してゐる。
その百四十七
北条霞亭の竹里《ちくり》の家に宿つた韓凹巷《かんあふこう》等五人の客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌《せうか》に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある。辛未の三月は小であつたので、二十九日が春尽《しゆんじん》になつてゐた。
四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中|河良佐《かりやうさ》と池希白《ちきはく》とは、途上|角鹿津《つぬがのつ》に於て別れ去つた。霞亭、凹巷並に田伯養《でんはくやう》、孫孟綽《そんまうしやく》の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰《こ》えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただらう。「初夏三日、与諸君取道湖西、抵越前角鹿津、与河池二君別、余輩経若狭、入丹後、観天橋、踰大江山帰、往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松《かんしよう》が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来たので、霞亭は携へて天橋立に遊んだ。所謂|蘆竹杖《ろちくぢやう》である。諸友の句を題した中に、「昔游観物最難忘、想倚天橋松影碧」と云ふのがある。これは凹巷の七律の七八である。凹巷と田孫二人とが辞し去る時、霞亭はこれを勢田の橋に近い茶店《ちやてん》まで送つた。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」
霞亭は六月に至るまで竹里に居つた。次で事があつて、京の街に住むこと二十余日にして、又嵯峨に帰つた。そして再び幽篁書屋《いうくわうしよをく》に入ることをなさずに、任有亭《にんいうてい》に寄寓した。嵯峨生活の中期は此に始まる。樵歌に「予因事徙居都下二旬余、不堪擾雑、復返西峨、寓任有亭、翌賦呈宣上人」の詩がある。宣上人《せんしやうにん》は僧月江である。後に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移林東梅陽軒」と云ふを見れば、任有亭に入つたのは六月二十八日であらう。これは前後のわたましの日をも算入して百日となしたのである。
任有亭は享保中僧|似雲《じうん》の住んだ故跡
前へ
次へ
全284ページ中119ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング