《をは》つて伊勢に帰つたのが新緑の時であつた。此春は庚午の春でなくてはならない。辛未の春より初夏に至るまでは、霞亭が已に竹里にゐたからである。
 霞亭は庚午の三月六日に広岡の家で旧師の死を聞いて、後事を営んだ。此間に多少の日子を費したことは、「恨歎弥日」と書したのを見て推せられる。
 此より伊勢の山口の家に来たのだから、其時は早くても三月中旬であらう。そして此より初夏に入るまでに、霞亭は籍を林崎に置き、洛師の遊を作《な》した筈である。果して然らば「紅葉添秋興」の事は、詩に於ては中間の遊に先《さきだ》つて写してあつても、実は中間の遊に後れてゐなくてはならない。此秋は洛師遊後の秋でなくてはならない。
 想ふに林崎院長《りんきゐんちやう》は職に就いた直後に、凹巷を拉して京都に遊んだのであらう。此遊の顛末は、上《かみ》に引いた詩句を除いては、別に見る所が無い。わたくしは唯其中に見えてゐる一の人物を抽《ぬ》き出して、此に註して置く。即ち「奇縁遇浄尼」の句中の浄尼《じやうに》である。
 比丘尼、名は松珠《しようじゆ》、紀伊国人《きのくにびと》であつた。霞亭凹巷の二人が大原に遊んだ時、松珠は寂光院内の寂如軒《じやくによけん》に住んでゐた。そして二人を留めて軒中に宿せしめた。浜野知三郎さんのわたくしに借した書の中に、「芳野游藁」一巻がある。是は此遊に遅るること三年、癸酉の春、凹巷が河崎敬軒、佐藤子文及霞亭と偕《とも》に芳野に遊んだ時の詩巻である。凹巷等が当麻寺《たいまでら》に於て松珠に再会したことは載せて巻中にある。
 霞亭は庚午の夏より冬に至るまで、林崎《はやしざき》にあつて文庫の書を渉猟し、諸生を聚めて経を講じ、又述作に従事した。山陽は「院蔵書万巻、因益致深博」と云つてゐる。凹巷は「堂上散書帙、聚徒垂絳帷」と云つてゐる。渉筆の一書の如きも亦此間に成つた。首に題してかう云つてある。「予読書之次。異聞嘉話。苟有会於心。随即録之。間或附一二管見。(中略。)頃消暑之暇。省覧一過。因抄若干条其中。※[#「「衣」の「なべぶた」の下に「臼」を入れる」、第4水準2−88−19]為冊子。」末《すゑ》に「文化庚午夏日」と記してある。渉筆は秋に至つて刊行せられた。林崎書院《りんきしよゐん》の蔵板である。
 霞亭は文化八年二月に林崎を去つて嵯峨に入つた。嵯峨|樵歌《せうか》は其隠遁生活の記録である。隠遁生活は霞亭の久しく願ふ所であつた。「勝地居新卜、此期吾自夙」と云ひ、「峨阜棲期自早齢、幽居先夢竹間※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]」と云つてゐる。わたくしは此より樵歌の叙する所に就いて、霞亭が幽棲の蹟《あと》を討《たづ》ねる。

     その百四十六

 北条霞亭の嵯峨生活は自ら三期に分れる。霞亭は初期は竹里《ちくり》に、中期は任有亭《にんいうてい》に、後期は梅陽軒《ばいやうけん》に居つた。僧月江撰の嵯峨樵歌の跋は此の三期を列記して頗《すこぶる》明晰である。「余近与霞亭北条君。結交於方外。君勢南人。性好山水。客歳携令弟立敬来嵯峨。初寓止竹里。中居任有亭。後又移梅陽軒。任有亭者吾院之所有。是以朝夕相見。交日以親焉。君深究経史。旁通群書。若詩若文。其所自適。信口命筆。自竹里之始。至梅陽之終。其間一朞年。所獲詩殆二百首。題曰嵯峨樵歌。」月江、名は承宣《しようせん》、所謂「吾院」は三秀院である。文は文化九年七月に草したもので、「客歳」は八年を謂ふ。
 霞亭は林崎院長を辞して、京都に入つた。韓凹巷《かんあふこう》は「依然旧書院、長謂君在茲、鸞鳳辞荊棘、烏鳶如有疑」と云つてゐる。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋」と云つてゐる。
 その林崎を去つた時は文化八年二月である。樵歌に「辛未二月予将卜居峨阜、留別社友諸君」の詩がある。霞亭は林崎にあつて恒心社を結んでゐた。社友とは此恒心社の同人を謂ふ。発程の前には暫く宇清蔚《うせいうつ》の家に舎《やど》つてゐたらしい。「予将西発前日石田生過訪予於宇氏寓館」と云ふ語がある。発程の日には凹巷が送つて宮川の下流、大湊の辺まで来た。「卜居択其勝、相送宮水※[#「さんずい+眉」、第3水準1−86−89]、大淀松陰雨、霑衣分手遅」と云つてゐる。
 京に入るとき弟|惟長《ゐちやう》が同行した。そして宇清蔚が来て新居を嵯峨に経営することを助けた。此間|井達夫《せいたつふ》も来て泊つてゐた。惟長の事は、山陽も「挈弟」と云ひ、月江も「携令弟」と云つてゐる。移居当時の事は、樵歌に「予卜居峨阜、宇清蔚偕来助事、適井達夫在都、亦来訪、留宿三日、二月念一日、修営粗了」と云つてある。想ふに早く二月中旬の某日に行李を卸して、二十一日に屋舎を修繕し畢《をは》つたのであらう。
 霞亭の卜する所の宅は、所謂竹里の居で、西に竹林《ちくりん》を控
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