渡らむとして溺れたやうに以為《おも》つてゐる。其文はかうである。「今以臆推之。三雲之棲。当在出北山之初。何以知之。以地相近。且従者尚在也。鷹巣之事。在三雲之後。土佐之行。又在鷹巣之後。何以知之。以拾遺(吉野拾遺)所言也。」
霞亭の二十歳になつた寛政十一年の夏、弟|彦《げん》は京都より的屋に帰つて、其秋十六歳で早世した。渉筆に、「翌年(戊午翌年)夏、帰省在家、九月十九日没、年十六歳」と云つてある。
霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は此間の事を、「入京及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と云つた方が当つてゐるだらう。凹巷《あふこう》も亦「飄忽君東去、去舟汎不維」と云つてゐるだけである。しかし京を去つた年は或は享和二年ではなからうか。後庚午の年に、再び広岡|文台《ぶんたい》を訪うて其死に驚く紀事に、「凡経八年南帰」と云つてあるからである。
霞亭の確に江戸にゐた年は、享和三年である。其二十四歳の時である。此年七月には或は既に入府してゐたやうにおもはれ、十二月には確に在府したことが、その自ら語る所に徴して知られる。
七月は霞亭の友鈴木|小蓮《せうれん》の歿した月である。渉筆に、「遠恥東帰、開業授徒、享和癸亥七月、病麻疹而没、年纔二十五、府下識与不識、莫不悼惜者、親友輯其遺稿若干篇上木、予亦跋其後、小蓮残香集是也」と云つてある。先づ「府下」の字を下《くだ》し、次で「親友」の字を下し、後に「予亦」の字を以て承《う》けてゐる。わたくしをしてその在府者の語たるを想はしむるのである。
十二月には霞亭が舟を柳橋に倩《やと》うて、墨田川に遊んだ。同遊者には河崎敬軒があつた。又|池隣哉《ちりんさい》と云ふものがあつた。河崎は十二年の後、菅茶山と共に西帰して、驥※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《きばう》日記を著した人である。池は十三年の後、霞亭が廉塾から的屋に帰つた時家にあつて、霞亭と弟惟長とに訪はれた人である。
その百四十二
北条霞亭が二十四歳の時、歳晩に舟を墨田川に泛べた記は渉筆に見えてゐる。「予嘗居江戸数年。享和癸亥歳晩。河良佐池隣哉来在府下。一日快雪初霽。予与二子。乗興出遊。遂到柳橋。命舟泛於墨水。両岸人家。白玉合成。銀閣瑤楼出其上。左右映帯。一棹悠々。挙酒賦詩。楽甚。隣哉出所齎香※[#「くさかんむり/熱」、第4水準2−80−7]炉。一縷烟出窓外。真如坐画図中舟。幽遠清澹之趣。※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]与塵凡隔。実一時之勝事也。」亨和中の諸生は香を懐にして舟に上《のぼ》つた。当時の支那文化は大正の西洋文化に優つてゐたやうである。
霞亭は江戸にあつて学業成就した。そして某藩の聘を避けむがために、奥州に赴いた。偶《たま/\》韓凹巷《かんあふこう》が伊勢国から来て此行を偕《とも》にした。山陽は「学成、一藩侯欲聘致之、会聯玉来偕遊奥、以避之」と云つてゐる。
此北遊の年月はわたくしの未だ知らざる所である。しかし或は文化元年甲子二十五歳の時ではなかつただらうか。凹巷はかう云つてゐる。「松島偶同遊。柳橋訂此期。独奈河良佐。客中臨路岐。迢々彼遠道。共指天之涯。下毛路向東。十月朔風吹。(中略。)帯月発荒駅。衝雨尋古碑。塩浦過群嶼。宛如局上棋。有楼収全境。眼中無蔽虧。富山又石港。探勝路逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]。」わたくしは先づ「柳橋訂此期」の句と、敬軒の別れ去つたことを叙する数句とに注目する。
わたくしは此詩句を取つて、姑《しばら》く妄《みだり》に下《しも》の如くに解する。霞亭の学術は前年癸亥に略《ほゞ》成つた。歳晩の舟遊は、その新に卒業して気《き》揚《あが》り興《きよう》豪《がう》なる時に於てせられた。柳橋の船宿で艤《ふなよそほひ》を待つ間に、霞亭は敬軒と松島に遊ぶことを約した。即ち「柳橋訂此期」である。然るにかねて契つた敬軒は官事に覊《き》せられて別を告げ、偶《たま/\》来つた凹巷が郷人に代つて行を同じくした。即ち「松島偶同遊、柳橋訂此期、独奈河良佐、客中臨路岐」である。柳橋の約はその訂せられた日より、その果たされた日に至るまで、多少の遷延を蒙つた。甲子の春が過ぎ、夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国《しもつけのくに》に入り、路を転じて東に向つたとき、十月の風が客衣を飜した。「下毛路向東。十月朔風吹。」その東に向つたのは、宇都宮附近よりしたことであらう。
二人は奥州街道を北へ進んで、仙台附近より又東に折れ、多賀城の碑を観た。其日は途中から雨になつた。「帯月発荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山《とみやま》に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。宛如局上棋。(中略。)富山又石
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