76]斎である。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も慊堂も既に退隠後年を経てゐた。その蘭軒の二子に教へたのは、皆退隠後の事であらう。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関《じやうくわん》書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之《くわいし》に譲つたことは、上に云つた如くである。慊堂の事はわたくしは未だ深く究めてゐない。しかし塩谷宕陰《しほのやたういん》撰の行状に拠るに、慊堂は明和八年辛卯の生である。その掛川に仕へたのが享和二年三十二歳の時である。その肥後の聘を却《しりぞ》けて骸骨を乞うた時、「吾帰于此十年、所天三喪、不可以移矣」と云つてゐる。享和二年より十年とすると、文化八年で、慊堂は四十一歳である。慊堂が羽沢《はねざは》の石経山房に入つたのは即此年であらう。所謂「所天三喪」は、太田備中守|資愛《すけちか》、摂津守|資順《すけのぶ》、備後守|資言《すけとき》であらう。資言は文化七年八月十一日に卒し、嗣子が無かつたので、宮川の堀田家から養子丈三郎が迎へられたのである。行状に「其嗣公之自宮川来続也、先生密疏言事、事秘不伝」と書してある。
わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権《かり》に十四歳を以てしたとすると、恰も好し※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の子懐之と同庚であつた。
柏軒の鉄三郎が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎退隠後の弟子たることは、疑を容れない。幼年の間鉄三郎は恐くは父に句読を受けてゐたであらう。しかしその文学出精と云ふを以て、夙《はや》く十二歳にして正精の賞詞を受けたことを思へば、少くも一二年前から師を外に求めてゐたであらう。そして其師は即ち※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎であつた。
榛軒と慊堂とは、わたくしは何時始て相見たか知らない。姑《しばら》く榛軒は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に従学すると同時に、慊堂にも従学したとすると、当時※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は四十三歳、慊堂は四十七歳であつた。慊堂は羽沢にあること既に七年になつてゐた。
此年の夏の初には、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が京都に往つてゐた。これは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が初度の西遊では無い。しかしわたくしは是より先其|遊蹤《いうしよう》を尋ねようとしてゐながら、遂に何の得る所も無かつた。そこで三村清三郎さんに問うた。三村氏は古京遺文に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が仏足石の事を言つて、京遊云々の語をなしたことを記憶してゐて、わたくしに告げ、又好古小録、好古日録に就いて索《もと》めたなら、其形跡が得られようと云つた。
わたくしは再び書を三村氏に寄せて、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の自ら語つた京遊云々の事を詳《つまびらか》にしようとした。三村氏はわたくしのために書を検する労を辞せなかつた。わたくしは此に其復柬中考証に係るものを節録する。
「既に古京遺文仏足石の条にも、余親至西京、経七日之久、精撫一本云々と御座候。遺文は文政元年之序候へど、(再校之節補入と疑へばともかく、普通にては)是れ以前之西遊を証せられ申候。扨好古小日録之填註を精査候処、大分詳細に相成候間、左に申上候。」
書牘はこれより無仏斎が二著の抄録に入る。
その百十三
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の西遊にして、此年辛巳以前に係るものは、これを三村氏の抄録中に索《もと》むるに、下《しも》の如くである。
「好古日録永仁古文孝経の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。寛政二年京師書肆|竹苞楼《ちくはうろう》にて観《みる》。」
「同春秋左氏伝の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。寛政二年山田以文の家にて観る。押小路外史の家蔵也。」
「好古小録|鴨毛屏風《あふまうへいふう》の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。寛政九年三月観。」
「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。文政二年四月観。」
「同覚融勝画の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。文政二年四月京師の商家にて観。」
「同仏鬼軍の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。京寺町十念寺蔵文政二年五月観。(下略。)」
以上寛政二年、九年、文政二年の三度、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である。
前へ
次へ
全284ページ中93ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング