所以異於見存者也。」
その百八
蘭軒は医心方を影写するに、島武《たうぶ》と云ふものの手を倩《やと》つた。そして自らこれに訓点を施した。島武は或は彼の儒門事親を写した高島信章と同人ではなからうか。跋にかう云つてある。「右丹波康頼医心方廿本。借之多紀氏聿脩堂。友人島武為余影鈔。如其旁訓朱点。乃余手鈔写焉。以青筆者。桂山先生之標記也。以朱筆抹旁者。余自便於捜閲人名与書目也。」わたくしはこれを読んで、蘭軒に「集書家」の目《もく》を与ふることの或は妥《おだやか》ならざるべきを思ふ。蘭軒は書を集むるを以て能事畢るとなしたものではない。その校讐に労すること此の如くであつた。しかも所謂校讐は意義ある校讐であつた。又其書を活用せむがための校讐であつた。
此年文政三年の夏、集中に詩四首が載せてあつて、其二は福山に還る人を送る作である。一は鈴木圭輔《すゞきけいすけ》、一は馬屋原伯孝《まいばらはくかう》である。
「送鈴木先生圭輔還福山」の詩はかうである。「分手不須歎索居。帰程行装寵栄余。芸窓占静校新誌。華館侍閑講尚書。月朗鴨川涼夜色。濤高榛海素秋初。到来応是推儒吏。恰似倪寛得美誉。」圭輔が儒を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
しかしわたくしは圭輔の事を今少し精《くは》しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔《れいけいほ》と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精《まさきよ》の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
鈴木圭、字《あざな》は君璧《くんへき》、宜山《ぎざん》と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格《かみしもかく》御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後《のち》を襲《つ》いだ。後|秉之助《へいのすけ》と云ふ。名は秉、字は師揚《しやう》、号は篁翁《くわうをう》、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝《まいばらはくかう》の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質《たゞ》した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略《ほゞ》明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。
その百九
此年文政三年の夏、鈴木|宜山《ぎざん》に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言《ぞうげん》したことは、前に云つた如くである。
わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原|周迪《しうてき》があることを発見した。伯孝と周迪とは均《ひと》しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下《しも》にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
しかしわたくしは既に羮《あつもの》に懲りてゐる。曩《さき》にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田|方《はう》の狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門人なることを錯《あやま》り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字《あざな》は叔亀《しゆくき》は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐《ふたゝ》びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原|玄益《げんえき》なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
阿部家の医官馬屋原氏は世《よゝ》玄益
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