。」蘭軒は少くも両三度の出遊を作《な》すことを得たと見える。
 夏に入つて四月十二日に蘭軒の妾《せふ》佐藤氏さよが一女子を挙げた。名は順と命ぜられた。饗庭篁村さんの所蔵に菅茶山尺牘の断片がある。茶山が順の生れたことを聞いて書いたものである。
「特筆。」
「先比《さきころ》は吾兄医はもとのごとく、別に儒者被仰付候由奉賀候。御格禄も殊なり候よし、これも被仰下度候。又御女子御出来被成候よし奉賀候。王百穀が七十にて男子をまうけし時、袁中郎が書に老勇可想とかきたるを以みれば、吾兄は病勇可畏などと申上べきや。これらの語※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎へは御談可被下候。尊内人、令郎君、おさよの方へも宜奉願上候。晋帥。」
 前年己卯十一月の儒者の任命と、此年孟夏の女子の誕生とを聞知した時の書である。断片には日附が闕けてゐる。毎に「おさよどの」と云ひ、又単に「おさよ」とも云つた茶山が今「おさよの方」と書した。亦諧謔の語である。

     その百七

 此年文政三年の五月、蘭軒は医心方の跋を作つた。医心方の影写は文化十四年丁丑に始まり、此年三月に終つた。即殆三年を費した事業である。
 丹波|康頼《やすより》は後漢の霊帝十三世の孫である。康頼八世の祖が日本に帰化して大和国|檜隈郡《ひくまのこほり》に居つた。六世の祖に至つて丹波国矢田郡に分れ住んだ。康頼に至つて丹波宿禰の姓を賜はつた。これが世系の略である。此康頼が円融天皇の天元五年に医心方三十巻を撰び、永観二年十一月二十八日にこれを上《たてまつ》つた。
 医心方は世《よゝ》秘府《ひふ》に蔵儲せられてゐた。そして全書の世間に伝はつたのが安政元年十一月十三日であつたことは、嘗て渋江抽斎の伝に記した如くである。是より先正親町天皇の時、典薬頭|半井瑞策《なからゐずゐさく》が秘府より受けて家に蔵することとなり、其|裔孫《えいそん》広明《ひろあき》に至つて出して徳川氏に呈したのである。
 然るに安政の「医心方出現」に先だつて、別に仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、半井本と殊なることがなかつた。寛政三年、即多紀氏の躋寿館《せいじゆくわん》が私立より官設に移された年に、躋寿館は此仁和寺本を影写して蔵することを得た。
 仁和寺本は残脱の書であつて、後に出でた半井本に比すべきではなかつたが、当時の学者はこれだに容易には窺ふことを得なかつたのである。そしてその偶《たま/\》鈔写することを得たものは、至宝として人に誇つた。それは下《しも》の如きわけである。
 六朝から李唐に至る間、医書の猶存するものは指を※[#「てへん+婁」、7巻−218−下−5]《かゞな》ふるに過ぎない。然るに隋唐経籍志に就いて検すれば、佚亡の書の甚多いことが知られる。それゆゑせめては間接に此時代の事を知らうといふ願望が生ずる。これは独り医家を然りとするのみでは無い。考古学者と雖亦同じである。
 幸に外台秘要《ぐわいたいひえう》と云ふ書がある。唐の王※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]《わうたう》の著す所である。※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]は珪の孫で、新唐書王珪の伝の末に数行の記載がある。此書は引用する所が頗《すこぶる》広いので、文献の闕を補ふに足るものである。只憾むらくは宋代の校定を経来り、所々字句を改易せられてゐる。新唐書に拠れば、「討繹精明、世宝焉」と云つてあつて、当時既に貴重の書であつた。宋人の妄《みだり》に変改を加へたのは慮《おもんぱかり》の足らなかつたものである。題号の外台は、徐春甫が「天宝中出守大寧、故以外台名其書」と云つた。これは朝野類要の「安撫転運、提刑提挙、実分御史之権、亦似漢繍衣之義、而代天子巡狩也、故曰外台」と云ふと同じく、外台を以て地方官の義となしたのである。しかし※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]は自序に、「両拝東掖、便繁台閣二十余歳、久知弘文館図書方書等、※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]是覩奥升堂、皆探秘要云」と云つてある。是に由つて観れば、魏志王粛伝の註に薛夏《せつか》の語を引いて、「蘭台為外台、秘書為内閣、台閣一也」と云ふが如く、所謂外台は即台閣ではなからうか。これは多紀桂山の考証である。
 外台秘要が既に旧面目を存せぬとすると、学者は何に縁《よ》つて李唐以上の事を窮めようぞ。只一の医心方あるのみである。蘭軒はかう云つてゐる。「康頼編此書。其所引用百余家。皆六朝及唐代之書。而且有経籍志不録者。王氏書不載者数十家。而其見存之書。亦体裁字句。間有大異。按皇朝往昔。通信使於唐国。留学之徒。相継不絶。二百有余年。而所齎来載籍。即当時之鈔本。所直得於宮庫或学士。非如趙宋而降。仮工賈之手。以成帙者也。康頼蓋資用於此。故皆是原書之旧。而
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