化三年十一月|晦《みそか》に長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。

     その百二

 菅茶山の丁丑八月七日の書には、猶落合敬介と云ふ人が見えてゐる。敬助は諸国を遍歴して、偶然茶山の曾遊の跡を踏んで行つた。そして毎《つね》に茶山去後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、数《しば/\》己を訪ふことを報じた。敬助は文章を善くした。茶山は評して富麗に過ぐと云ひ、蘭軒をしてその冗を去り簡に就くことを勧めしめむとしてゐる。
 落合|※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]《かう》、字《あざな》は子載、初《はじめ》鉄五郎、後敬助と称し、※[#「隻+隻」、7巻−207−下−10]石と号した。日向国|飫肥《おび》の人である。※[#「隻+隻」、7巻−207−下−11]石の事は三村清三郎、井上通泰、日高無外、清水右衛門七の諸家の教に拠つて記す。
 此年文化十四年八月二十五日に、阿部|正精《まさきよ》は所謂《いはゆる》加判の列に入つた。富士川游さんの所蔵の蘭軒随筆二巻がある。これは後明治七年に森|枳園《きゑん》が蘭軒遺藁一巻として印行したものの原本である。此随筆中「洗浴発汗」と云ふ条《くだり》を書きさして、蘭軒は突然|下《しも》の如く大書した。「今日殿様被蒙仰御老中恐悦至極なり。文化十四年八月二十五日記。」
 十二月に至つて、蘭軒は阿部家に移転を願つた。丸山邸内に於ける移転である。勤向覚書にかう云つてある。「文化十四年丁丑十二月九日、高木轍跡屋敷御用にも無御座候はば、拝領仕度奉願上候。同月十七日、前文願之通被仰付候。同十七日、願之通屋敷拝領被仰付候に付、並之通拝借金被成下候。同月廿日、拝領屋敷え引移申候段御達申上候。」即ち移転の日は二十日であつた。
 わたくしの考ふる所を以てすれば、伊沢分家が後文久二年に至るまで住んでゐたのは此家であらう。此高木某の故宅であらう。伊沢|徳《めぐむ》さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡《おほよそ》下《しも》の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」此部屋割は後年の記に係るので、榛軒の継室浄楽院飯田氏の名がある。又|正宗院《しやうそうゐん》は蘭軒の姉|幾勢《きせ》である。しかし房数席数は初より此《かく》の如くであつたかとおもはれる。
 二十三日に蘭軒は医術|申合会頭《まうしあはせくわいとう》たるを以て賞を受けた。勤向覚書に云く。「廿三日御談御用御座候所、長病に付名代山田玄升差出候。医術申合会頭出精仕候為御褒美金五百疋被成下候旨、関半左衛門殿被仰渡候。」
 冬至の日に蘭軒は蘇沈良方《そちんりやうはう》の跋を書いた。蘇沈良方は古本が佚亡した。そして当時三種の本があつた。一は皇国旧伝本で寛政中|伊良子光通《いらこくわうつう》の刻する所である。一は呉省蘭《ごせいらん》本で嘉慶中に藝海珠塵《げいかいしゆぢん》に収刻せられた。一は鮑廷博《はうていはく》本で乾隆中に知不足斎《ちふそくさい》叢書に収刻せられた。鮑本は程永培《ていえいばい》本を底本となし、館本を以て補足した。皇国本は程本と一致して、間《まゝ》これに優つてゐる。呉本は鮑の所謂《いはゆる》館本である。蘭軒は三本を比較して、皇国本第一、呉本第二、鮑本第三と品定した。
 蘭軒は一々証拠を挙げて論じてゐるが、わたくしは此に蘭軒が鮑本|香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]散《かうじゆさん》の条《くだり》を論ずる一節を抄出する。「香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]散犬が飜《こぼ》して雲の峰。」これは世俗の知る所の薬名だからである。「神聖香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]散。注(鮑本注)云。程本作香茸。方中同。疑誤。今遵館本。按。(蘭軒按。)図経本草曰。香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]一作香※[#「くさかんむり/矛/木」、7巻−209−上−14]。俗呼香葺。程本茸。即葺之訛。宋板書中。有作香茸者。其訛体亦従来已久。則改作※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]者。妄断耳。」所謂宋板の書は宋板百|川学海《せんがくかい》、又本草綱目引く所の食療本草で、皆|茸《じよう》に作つてある。蘭軒は鮑廷博の妄に古書を改むるに慊《あきたら》ぬのである。蘭軒の跋は下《しも》の如く結んである。「嗚呼無皇国本。則不能見其旧式。無呉本。則不能校其字句。無鮑本。則不能知二家之別。
前へ 次へ
全284ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング