二月春、島声花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「真野先生」は或は真野冬旭《まのとうきよく》か。
茶山の此旅には少くも同行者の紀行があつた筈である。一行の中には豊後の甲原《かふはら》玄寿があり、讚岐の臼杵《うすき》直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築《きつき》吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏に更《あらた》めた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。所謂《いはゆる》「驥※[#「亡/虫」、7巻−153−上−10]日記」を著した人である。後に茶山がこれに序した。大意はかうである。河崎は自ら※[#「亡/虫」、7巻−153−上−12]《ばう》に比して、我を驥にした。敢て当らぬが、主客の辞となして視れば差支なからう。しかし河崎がためには此路は熟路である。我は既に曾遊の跡を忘れてゐる。「則其尋名勝、訪故迹、問奇石、看異木、唯良佐之尾是視、則良佐固驥、而余之為※[#「亡/虫」、7巻−153−下−1]也再矣」と云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない。
茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に、白川楽翁公は酒間梅を折つて賜はつた。茶山は阿部邸に帰つた後、※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]駝師《たくだし》をして盆梅に接木せしめた。枝は幸にして生きた。茶山は纔《わづか》に生きた接木の、途次に傷《やぶ》られむことを恐れて、此盆栽の梅を石田梧堂に託した。梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。茶山は下の如く記してゐる。「歳乙亥、余※[#「禾+砥のつくり」、7巻−153−下−12]役江戸邸、一日趨白川老公招飲、酒間公手親折梅一枝、又作和歌并以賜余、余捧持而退、置于几上、翌日隣舎郎来云、賢侯之賜、宜接換移栽故園、不容徒委萎※[#「くさかんむり/爾」、7巻−153−下−15]、余従其言、及帰留托友人石子道、以佗日郵致、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚且喜、梅舎与余、無半面之識、而千里帯来、其意一何厚也、既帰欲遺一物以表謝意、至今未果、頃友人泉蔵来話及其事、意似譴魯皐、因先賦此詩。以充乗韋、附泉蔵往之。穉梅知是帯栄光。特地駄来千里強。縦使盆栽難耐久。斯情百歳鎮芬芳。」当時の白川侯は松平越中守定永であつたので、楽翁公定信を老公と書してある。泉蔵は備中国長尾村の人小野|櫟翁《れきをう》の弟である。
その七十五
蘭軒には「送茶山菅先生還神辺」の七絶五首がある。此に其三を録する。「其一。新誌編成三十多。収毫帰去旧山阿。賢侯恩遇尤優渥。放使烟霞養老痾。其二。西遊昔日過君園。翠柳蔭池山映軒。佳境十年猶在目。方知帰計値春繁。其三。詞壇赤幟鎮山陽。藝頼已降筑亀惶。※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]騎一千時満巷。門徒七十日升堂。」第三の藝頼《げいらい》は安藝の頼春水、筑亀《ちくき》は筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所に阿《おもね》つて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。わたくしがことさらに此詩を取るのは、蘭軒の菅に太《はなは》だ親しく頼に稍|疎《うと》かつたことを知るべき資料たるが故である。
蘭軒は又茶山に花瓶《くわへい》を贈つた。前詩の次に「同前贈一花瓶」として一絶がある。「天涯別後奈相思。駅使梅花有謝期。今日贈君小瓶子。插芳幾歳侍吟帷。」
蘭軒は既に茶山を送るに詩を以てして足らず、恵《けい》は更に其同行者にも及んだ。「送臼杵直卿甲原元寿従菅先生帰。追師負笈促帰行。不遠山河千里程。幾歳琢磨一※[#「隻+隻」、7巻−154−下−13]璞。底為照乗底連城。」
茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部|第《てい》を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思二※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]がある。「風軽軽。雨軽軽。雨歇風恬鳥乱鳴。此朝発武城。人含情。我含情。再会何年笑相迎。撫躬更自驚。」これが其一である。
東海道中の諸作は具《つぶさ》に集に載せてある。河崎良佐は始終|轎《かご》を並べて行つた。二人が袂を分つたのは四日市である。「一発東都幾日程。与君毎並竹輿行。」驥※[#「亡/虫」、7巻−155−上−6]《きばう》日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。
東海道を行つた間、月日を詳《つまびらか》にすべきものは、先づ三月二日に竜華寺《りうげじ》の対岸を過ぎたことである。「岡本醒廬勧余過竜華寺曰。風景為東海道第一。三
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