して此《かく》の如しとすると、「十九年が間そばにをり候」とは云はれぬ筈である。かく云ふには天保三年壬辰より算せざることを得ない。且|所謂《いはゆる》「此年」は即ち前の「去年壬辰」を斥《さ》して云つたもので、秋水が書を出し示した四年癸巳より見れば去年も此年も均《ひと》しく一年前でなくてはならない。何故と云ふに、里恵の書には単に「閏月廿五日」としてあるが、天保四年癸巳には閏月は無く、閏月のあるは只三年壬辰の十一月のみだからである。
 里恵の墓は松陰が其文を撰んだが、但「頼山陽先生入京、娶為継室」と書して、婚嫁の年を言はない。山陽自家の詩文を検するに、只文政三年庚辰の詩引に「余娶婦、未幾丁艱」と云つてあるのみである。「丁艱」とは文化十三年二月十九日に父春水を喪つたことを斥す語である。未幾《いまだいくばくならず》は一年とも見られ、二年とも見られる。此故にわたくしは里恵の云ふ所を以て拠るべしとする。
 此年蘭軒は三十八歳であつた。「歳晩偶成」の七律が「歳華卅八属駒馳、筆硯仍慚立策遅」を以て起してある。此語を味へば初より著述はせぬと意を決してゐたのではないかも知れない。妻益は三十二歳、榛軒十一歳、柏軒五歳、長《ちやう》一歳であつた。
 文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。
 蘭軒の七絶二首の中、其一を此に録する。「夏葛冬裘君寵光。痴夫身計不知忙。更将長物誇人道。梅有新香書古香。」先づ梅花と共に念頭に浮ぶものは、旧に依つて儲書《ちよしよ》の富である。茶山の七律は頷聯に「蒲柳幸将齢七十、枌楡猶且路三千」と云ひ、七八に「自笑樵夫寓朱邸、謾班群彦拝新年」と云つてある。
 蘭軒は元旦の詩に梅と書とを点出した。わたくしは其梅の詩を今一つ写し出して置きたい。それは前年の暮に新井白石の容奇《ゆき》の詩に倣つて作つたものである。「詠梅、傚白石容奇詩体。陽春自入難波調。已与桜花兄弟分。枝古瑤箏絃上曲。色濃※[#「丹+彡」、第3水準1−84−29]管巻中文。嬌娘拒詔安禽宿。壮士飛英立戦勲。尤美菅公遺愛樹。追随千里護芳芬。」
 自註は煩を憚つて省く。一は王仁《わに》、四は紫式部、五は紀内侍、六は梶原影季、七八は菅原道真である。

     その七十四

 此春、文化十二年の春となつてから、菅茶山が初て蘭軒を訪うたのは、伊沢家に於て例として客を会する豆日草堂集《とうじつさうだうしふ》の日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」
 錦里先生は茶山を斥《さ》し、蘇門の高士は栗陰《りついん》を斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊に嘯翁《せうをう》の号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。栗斎服保《りつさいふくはう》は号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。
 二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」
 茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。
 新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、字《あざな》は君節《くんせつ》、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注|准南子《ゑなんし》の序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年|閏《じゆん》七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。序《ついで》に云ふ。青柳東里《あをやぎとうり》の続諸家人物誌には村卜総《そんぼくそう》の次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。河原林《かはらばやし》春塘は未だ考へない。
 茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊
前へ 次へ
全284ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング