時伏見舟場より乗船、撫院に侍す。淀の小橋をすぐ。朝霧《てうむ》いまだはれず。水車の処に舟をよせて観たり。行々《ゆき/\》て右淀の大橋を見、左に桂川の落口を見て宮の渡の辺に到て、霧《きり》霽《はれ》日光あきらかに八幡の山|平瀉《ひらかた》の民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あし茅《かや》の深き処、浅瀬の船底石に摩《す》る処、深淵の蒼みたるところ、堤に柳ありて直曲なる処、野渡《やと》のせばき処、遠き山見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂に過所町《くわしよまち》の河岸に著く。撫院は為川辰吉の家に入る。余は伏見屋庄兵衛の楼上に寓す。此楼下は大河に臨み、舟に乗来し処、天満《てんま》橋天神橋難波橋より西は淀屋橋辺を望て、遊船|商※[#「舟+皇」、7巻−73−下−2]《しやうくわう》日夜喧嘩なり。夜に入ば烟火戯光映照波絃歌相和。ことに涼風満楼|蚊蠅《ぶんよう》絶てなし。数日旅程の暑炎鬱蒸盪瀉し尽せり。此日天晴。」
 詩。「暁下淀河。其一。舟舷置棹順流行。離岸茫々傷客情。数叫杜鵑何処去。暁雲深籠淀河城。其二。疎鐘渡水報清晨。山翠雲晴濃淡新。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]犬声聞蘆荻外。先知村市近河浜。其三。波光泛日霧初消。次第行過大小橋。猶有篷舟泊洲渚。折来枯柳作薪焼。浪華。其一。豊公旧築浪華城。都会繁華勝帝京。民俗猶余雄壮気。路傍攘臂動相争。其二。縦横廛市夾河流。商舸来従数十州。大賈因能処奇貨。驕奢時有擬公侯。」
 第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す。凡三四町書肆|櫛比《しつぴ》す。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」
「九日田沼玄仙雲林院玄仲を訪不遇。日薄暮玄仲来。年六十二。謙遜野ならず。此日暑甚し。」

     その三十八

 第二十一日は文化三年六月十日である。「十日辰後に客舎を発し、難波橋を渡り天満《てんま》の天神へ詣《いた》り、巳時|十※[#「隻+隻」、7巻−74−上−9]《じふさう》村に到る。此地平遠にして青田広濶なり。隴畝《ろうほ》の中数処に桔槹井《けつかうせい》を施て灌漑の用をなす。十※[#「隻+隻」、7巻−74−上−10]川を渡り尼崎城下をすぐ。此地市街城をめぐり二十余町人家みな瓦屋《ぐわをく》にして商賈多く万器乏しき事なし。人喧都下の郭外に似たり。五里西宮駅。上田屋平兵衛の家に宿す。時いまだ未《ひつじ》ならず。西宮に到りて拝神《かみをはいす》。世人|蛭児尊《ひるこのみこと》を称すれども祭神中央は天照太神宮にして左素盞嗚尊、右蛭児尊なり。拾玉集慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれの頃此寺に移ししか寺僧に問ども不知。あまり大鐘にあらず。径《わたり》一尺八寸七分|許《きよ》厚二寸許緑衣生ぜり。此日寺中書画を曝す日にて蔵画を見たり。大横幅著色寿老人一|掛《くわい》寺僧|兆殿司《てうでんす》の画《ゑがく》ところなりといへども新様にして疑ふべし。しかれども図式は頗奇異なり。全《まつたく》摸写のものならん。名識印章並になし。竪幅《じゆふく》二掛一対墨画十六羅漢明兆画とありて印なし。飛動気韻ありて且古香|可掬《きくすべし》。殿司の真迹疑べからず。駅長の家烏山侯霞崖の書せる安穏二字を榜《ばう》す。此日暑甚し。行程五里許。」
 詩。「已発浪華将就山陽道到十※[#「隻+隻」、7巻−74−下−15]村作。其一。朝嵐欲霽半蒼茫。村市人声未散場。菜畝千※[#「勝」の「力」に代えて「土」、7巻−74−下−16]青似海。桔槹数十賽帆檣。其二。六月凌霄花政開。暑炎如燬起塵埃。行程未半西遊道。已是離郷廿日来。」
 第廿二日。「十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。菟原《うはら》住吉祠に詣り海辺の田圃を経《ふ》る。村中醸家おほし。木筧《もくけん》曲直《きよくちよく》して水を引こと遠きよりす。一望の中武庫摩耶の諸山近し。生田祠に詣《いた》る。此日祠堂落成|遷神《せんしん》す。社前の小流生田川と名く。(古今六帖に出。)荷花盛に開く。門を出桜の馬場の半より左曲す。坂本村田圃を過。楠公碑を拝し湊川をすぐ。水なし。五里兵庫駅。六軒屋定兵衛の家に休す。日|正《まさに》午《ご》なり。尻池村をすぎ平知章墓《たひらのともあきらのはか》監物頼賢墓《けんもつよりかたのはか》平通盛墓を看る。苅藻《かるも》川の小流を経て東須磨に到る。いなば薬師に詣り西須磨をすぐ。西須磨の家毎軒竹簾を垂る。平家内裏
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