ば》を費さぬであらう。是はわたくしの自ら擇んだ所の伝記の体例が、然ることを期せずして自ら然らしむるのである。
わたくしは筆を行《や》るに当つて事実を伝ふることを専《もつぱら》にし、努《つとめ》て叙事の想像に渉《わた》ることを避けた。客観の上に立脚することを欲して、復主観を縦《ほしい》まゝにすることを欲せなかつた。その或は体例に背《そむ》きたるが如き迹あるものは、事実に欠陥あるが故に想像を藉りて補填し、客観の及ばざる所あるが故に主観を倩《やと》つて充足したに過ぎない。若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言《こと》讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。
蘭軒は何者であつたか。榛軒柏軒|将《はた》何者であつたか。是は各人がわたくしの伝ふる所の事実の上に、随意に建設することを得べき空中の楼閣である。善悪智愚|醇※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2−90−40]《じゆんり》功過、あらゆる美刺褒貶《びしはうへん》は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。
わたくしは果して能く此の如き余地遊隙《よちいうげき》を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強《し》ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。
史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須《ま》つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。
わたくしは上《かみ》に体例と云つた。しかし是は僭越の語である。体例を創するは凡庸人の力の及ぶ所では無い。わたくしが体例と云つたのは、自家の出発点を明にせむがために、姑《しばら》く妄《みだり》に命名した所に過ぎない。わたくしは古今幾多の伝記を読んで慊《あきた》らざるものがあつた故に、竊《ひそか》に発起する所があつて、自ら揣《はか》らずしてこれに著手した。是はわたくしの試験である。
わたくしは此試験を行ふに当つて、前《さき》に渋江抽斎より姶め、今又次ぐに伊沢蘭軒を以てした。抽斎はわたくしの偶《たま/\》邂逅した人物である。此人物は学界の等閑視する所でありながら、わたくしに感動を与ふることが頗《すこぶる》大であつた。蘭軒は抽斎の師である。抽斎よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討《たづ》ねたのである。わたくしは学界の等閑視する所の人物を以て、幾多価値の判断に侵蝕せられざる好き対象となした。わたくしは自家の感動を受くること大なる人物を以て、著作上の耐忍を培《つちか》ふに宜《よろ》しき好き資料となした。
以上はわたくしが此の如き著作を敢てした理由の一面である。
その三百七十
わたくしは渋江抽斎、伊沢蘭軒の二人を伝して、極力客観上に立脚せむことを欲した。是がわたくしの敢て試みた叙法の一面である。
わたくしの叙法には猶一の稍人に殊なるものがあるとおもふ。是は何の誇尚《くわしやう》すべき事でもない。否、全く無用の労であつたかも知れない。しかしわたくしは抽斎を伝ふるに当つて始て此に著力し、蘭軒を伝ふるに至つてわたくしの筆は此方面に向つて前に倍する発展を遂げた。
一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず、其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である。
前人の伝記若くは墓誌は子を説き孫を説くを例としてゐる。しかしそれは名字存没等を附記するに過ぎない。わたくしはこれに反して前代の父祖の事蹟に、早く既に其子孫の事蹟の織り交ぜられてゐるのを見、其糸を断つことをなさずして、組織《そしよく》の全体を保存せむと欲し、叙事を継続して同世の状態に及ぶのである。
わたくしは此叙法が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔|魏収《ぎしう》は魏書を修むるに当つて、多く列伝中人物の末裔を載せ、後に趙翼《てうよく》の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に私《わたくし》したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。近ごろ今関天彭《いませきてんぱう》さんの先儒墓田録は物徂徠の裔を探り市野迷庵の胤を討《たづ》ねて、窮め得らるべき限を窮めてゐる。惟《たゞ》今関氏の文は短く、わたくしの文は長きを異なりとする。
是は文の体例の然らしむる所である。彼は地誌に類する文を以て墳墓を記し、此は人の生涯を叙する伝記をなしてゐるからである。
そして此にわたくしの自ら省
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