中より維新に至るまでの間に、狩谷従之と云ふものがあつて、文雅人名録の類に載せられてゐる。従之は字《あざな》を善卿《ぜんけい》と云ひ、通称を三右衛門と云ひ、融々《ゆう/\》又|周《しう》二と号した。家は神田明神前にあつた。人名録の肩には「画」と記してある。その名に「之」字を用ひ、字に「卿」字を用ゐ、「三右衛門」とさへ称するを見れば、人をして望之の族たることを想はしめる。望之の家は三右衛門望之、三平懐之、三右衛門矩之、三市である。従之の氏名字号通称は相似たることも亦甚だしいではないか。
 試に其時代の同異を推すに、三右衛門従之は三平懐之が歿し、三右衛門矩之が嗣《つ》いだ頃から世に聞え始めた。しかし矩之は当時十四五歳の少年であつたから、従之は必ずこれより長じてゐたであらう。又矩之は本所の津軽邸内に蟄してゐたのに、従之は昔望之の住んだ湯島を距《さ》ること遠からぬ神田明神前に門戸を張つて画師をしてゐたのである。語を換へて言へば、安政以後には二人の狩谷三右衛門が並存してゐて、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の嫡孫《てきそん》に係るものは隠れて世に知られず、却て彼三右衛門従之が名を藝苑に列してゐた。
 わたくしは曩《さき》に従之の名を挙げて三市さんに問うた。しかし三市さんは夢にだに知らなかつたと云ふ。父と同世同氏同称の人があつたことは、三市さんの家に於ては曾《かつ》て話題にだに上らなかつたと見える。
 世上に若し従之の何者なるを知つた人があるならば、どうぞ事の真相を発表してわたくしの疑を釈《と》いてもらひたい。

     その三百六十七

 森枳園乙亥十一月十日の書には、猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風《るゐちゆうふう》を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真《しん》と云ひ、渋江|優善《やすよし》、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉《か》り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。
 書中には又阿部|正学《まさたか》の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記に「直吉」と書してゐる。是は維新後の称である。素《もと》福山侯の分家で、正学は前《さき》に棠軒を率《ゐ》て駿府加番に赴いた隼人正純《はいとまさずみ》の継嗣である。枳園は此人の入京した時、偶《たま/\》阿部宗家の正桓《まさたけ》に扈随して日光に往つてゐたので、相見るに及ばなかつた。以上は枳園|尺牘《せきどく》の註脚である。
 上《かみ》に云つた如く、枳園の此書を裁した十一日は、棠軒の筆を日録に絶つた十日の翌日である。棠軒は何故に筆を絶つたか。
 按ずるに棠軒は病のために日録を罷めたのである。此事実は下《しも》に引く清川玄道の書牘《しよどく》に見えてゐる。十一月四日には幼児三郎が死んだ。九日には日記に「挙家痢疾」の語がある。そして棠軒は実に此月十六日を以て歿してゐる。日録を罷めた後僅に六日である。
 わたくしは此に於て想像する。三郎は痢を病んで死んだ。次で全家が痢を病んだ。棠軒も亦これに感染して死んだ。わたくしは此の如くに想像する。
 棠軒は乙亥の歳十一月十六日に四十二歳にして歿した。「病死御届。第二大区深津郡小二十一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒。右之者十一月十七日病死仕候。此段御届奉申上候、以上。明治八年十一月。右長男、伊沢徳。小田県参事益田包義殿。」喪は次日に発せられたのである。
 尋《つい》で棠軒未亡人|柏《かえ》は徳《めぐむ》の家督相続を県庁に稟請した。「家督相続御願。第二大区深津郡小廿一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒亡長男、伊沢徳。右者先般御届仕居候通、棠軒病死仕候に付、跡相続之儀者書面之者に被仰付被成下度、此段奉願候、以上。明治八年十一月。伊沢徳母、かよ。小田県参事益田包義殿。」徳は時に十七歳であつた。
 棠軒生前に枳園の寄せた書は、果して棠軒の閲読を経たかどうか不詳である。棠軒歿後に清川玄道の徳に与へた書は、猶徳さんの蔵儲中にある。「尊大君事十一月十日夜半より御発病(中略)、同月十七日遂に御遠行之趣(中略)、御愁傷之程奉恐察候。三郎君にも十月四日痢症にて御遠行之由、重々の御愁傷紙上|御悔難尽儀《おんくやみつきがたきぎ》に被存候。母堂君久々御不快之趣(中略)、折角|御保摂奉祷候《ごはうせついのりたてまつりそろ》。(中略。)手前方にても、八月十七日長女とゑ病死、(中略)、虚労《きよらう》症にて遂に下泉殆当惑罷在候。(中略。)御従弟、横浜住居之おとし殿及旧門下之仁にも(中略)御為知《おんしらせ》申上候事に御坐候。(中略。)養母始宮崎姉共も宜敷申上候様申出候。(下略。)十二月五日認。清川玄道。伊沢徳様。」伊沢清川両家の
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