官を拝するに終つた。わたくしは先づ其後の日記中より目に留まつた件々を抄出する。
「廿七日。(六月。)晴。江木老人来。」是は鰐水が戦後初度の来訪であつたらしい。日記に見えてゐる森枳園父子、岡西養玄の往来の如きは此に抄せない。其往来殆虚日なきが故である。養玄は嘗て一たび柏《かえ》の所生の女《ぢよ》梅を娶《めと》つて、後にこれを出したものである。然るに伊沢岡西二家の人々は殆|細故《さいこ》意に介するに足らずとなすものの如くである。推するに是は人材を重んずる蘭軒の遺風に出づるものであつたらしい。養玄は後の岡寛斎である。
「廿九日。陰。去《さんぬる》十七日於東京府殿様福山藩知事|被為蒙仰候《おほせをかうむらせられそろ》に付、右|為御祝儀《ごしうぎとして》御帳可罷出之処、当病不参。」阿部|正桓《まさたけ》が藩主より藩知事に更任せられたのである。後七|夕《せき》の条に「当日御祝儀御帳出勤」と記してある。
七月九日に棠軒は深津郡《ふかづごほり》吉津村に移住せむことを請うて允《ゆる》された。按ずるに棠軒は早く前年戊辰八月九日に吉津村に移つた。此に謂ふ「移住」は其地を永住の所とする意であらう。福山県には是より先甲子の歳に屋敷割の事があつたので、棠軒は同班と連署して下《しも》の願書を呈した。「元治元年甲子歳。屋敷拝領被仰付候様被仰出候に付、私共業柄之事故、町場近き屋敷拝領仕度奉内願候以上。五月廿九日。成田竜玄。伊沢春安。石川貞白。」棠軒は今此「拝領屋敷」として吉津村の地を乞ひ得たのであらう。日録に云く。「九日。(七月。)晴。午後驟雨。月番中に付、以養真内願差出如左。口上之覚。私儀御領分深津郡吉津村え在宅仕度奉内願候以上。七月九日。伊沢春安。右鼠半切相認中折半分上包。右即刻内願之通勝手次第被仰渡候旨、督事官吉左衛門殿、造酒之丞殿被申談候由、養真より申来る。」吉左衛門は三浦氏、三十歳。造酒之丞《みきのじよう》は渡辺氏、年齢不詳。
同じ日(七月九日)の記に猶「岡より被招、洞谷同道行飲」の文があつてわたくしの目を惹いた。岡西養玄は蚤《はや》く此時岡氏に改めてゐたらしい。己巳席順に養玄の右傍《いうばう》に「待蔵」と註したのを見るに、啻《たゞ》に縦線を以て養玄の二字を抹してゐるのみならず、線は上《かみ》「西」字にも及んでゐる。按ずるに岡西養玄は己巳に一たび岡待蔵と称し、次で岡寛斎と改めたのである。洞谷は画師吉田氏で、上《かみ》にも見えてゐる。
「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積《つもらす》。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。
その三百四十六
棠軒日録己巳七月の条には、次に冢子《ちようし》平安の教育の事が見えてゐる。「十二日。(七月。)晴。馬場に行。平安誠之館稽古一件頼。」馬場保之助は此年の席順第五等席に載せてあつて、「教授」の肩書がある。平安は今の徳《めぐむ》さんで、当時十歳であつた。
次に日録に始て意篤《いとく》と云ふものの来訪が書してある。「十五日。雨。意篤来。」按ずるに川村意得|重善《しげよし》の子、長を重監《しげあき》と云ひ、仲を新助退《しんすけたい》と云ひ、季を敬蔵重文《けいざうしげぶみ》と云ふ。重文の妹|天留《てる》の夫が意篤|重貞《しげさだ》、重貞の子が重固《しげかた》である。退、字《あざな》は進之《しんし》、悔堂と号す。霞亭北条譲の養嗣子である。蘭軒と霞亭との親善であつたことは上《かみ》に見えてゐる。今此文に由つて、蘭軒の養孫棠軒と霞亭の養子悔堂の妹婿《いもうとむこ》との交際が証せられるのである。意篤は己巳六十二歳であつた。以下意篤との往来は省く。
「十七日。陰《くもる》。普請取掛延引、明日より相始。」深津郡吉津村の構築である。
「十八日。陰。平安誠之館へ今日より出す。尤手跡学問共。」嫡子の就学である。
「廿三日。午後雨。高束《たかつか》に行。お長縁談の一件御奥御都合|承合《うけたまはりあはせ》。」棠軒の女長は当時十六歳であつた。此文より推せば、長は阿部家の奥に仕へてゐたのに、これを娶《めと》らむと欲するものがあつて、棠軒は長がために暇を乞はうとしてゐたのではなからうか。高束応助は己巳六十四歳であつた。阿部家奥向の事を管してゐたものか。
「廿五日。晴。馬屋原《まいばら》、上原、石川へ寄、吉津見廻り。」馬屋原玄益は席順に拠るに己巳三十八歳で、生年は天保三年である。蘭軒の詩を贈つた成美伯好《せいびはくかう》の子で、当時江戸にあつたものと推せられる。棠軒は其留守宅を訪うたのである。
「廿六日。雨。昨
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