医師を遇することが甚《はなはだ》薄かつたので、本康宗達《もとやすそうたつ》の門人が大に不平を鳴らした。柏軒の門人塩田良三は温言を以て慰めたが、容易《たやす》く聴かなかつた。其時塩田が狂歌を詠んだ。「不自(不二)由を辛抱するが(駿河)の旅なれば腹(原)立つことはよしはら(吉原)にせよ。」本康の門人も遂に笑つて復《また》言はなかつた。
その三百十七
わたくしは癸亥の歳に将軍家茂上洛の供に立つた柏軒の旅を叙して駿河路に至り、吉原に宿つた夕、柏門の塩田良三が狂歌を詠じて、本康宗達の門人を宥《なだ》め賺《すか》した事を言つた。しかし柏軒等の吉原に宿した日を詳《つまびらか》にしない。
次にわたくしは柏軒が二月二十三日に藤枝を発し、大堰《おほゐ》川を渡り、遠江国掛川に宿したことを知つてゐる。それは良子刀自が下《しも》の如き書牘《しよどく》を蔵してゐるからである。「今廿三日|藤枝宿立《ふぢえだじゆくをたち》、巳時頃大井川|無滞《とゞこほりなく》一統相済候。目出度存候。斎主、立賢《りふけん》、敬順、安策、常庵様、塾中一統善御頼可被成候。尚於柏於国其外宜可申候。二月廿三日。磐安於掛川宿書《ばんあんかけがはじゆくにおいてしよす》。徳安え。」「斎主」はお玉が池明誠堂の塾頭か。立賢は竹内氏、敬順は松田氏道夫、安策は清川氏孫、常庵は柴田氏である。わたくしは此書に由つて、柏軒の冢子《ちようし》鉄三郎が癸亥の歳に既に「徳安」と称してゐたことを知る。
次にわたくしは二十七日に柏軒が岡崎を発し、宮駅《みやえき》に宿し、二十八日に宮駅を発し、桑名に宿したことを知つてゐる。それは柏軒自筆の「神道録」の首《はじめ》に下《しも》の文があるからである。「二月廿七日。大樹公発岡崎。随行宿于宮駅。詣熱田大神宮八剣宮。廿八日。発宮駅。舟渡佐渡川。至桑名。入伊勢国也。」神道録も亦良子刀自の蔵する所である。
次にわたくしは三月四日に柏軒が大津を発して入京したことを知つてゐる。是は柏軒自筆の日記に見えてゐる。日記も亦良子刀自の蔵儲中にある。わたくしは下にこれを抄出する。
「文久癸亥三月四日|暁《あかつき》寅時《とらのとき》、大津御旅館御発駕、(中略)三条大橋御渡、三条通より室町通へ上り、二条通を西へ、御城大手御門より中御門へ御入《おんいり》、御玄関より御上り」云々。是は将軍家茂入京の道筋である。以下柏
前へ
次へ
全567ページ中482ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング