磐、津山碧山、長門の人矢島|屯《じゆん》に至つたものがあると云ふ。恐くは是であらう。
柏軒はお玉が池の新居を営むに当つて、頗る其工費を辨ずるに苦んだ。塩田|真《しん》さんの語る所は下《しも》の如くである。
「柏軒先生の家計は常に裕でなかつた。先生自己が理財に疎かつたことは勿論であるが、夫人狩谷氏も亦決して細事に意を用ゐて周到なることを得る人ではなかつた。先生は貧ならざることを欲すと雖も、奈何《いかん》ともすることが出来なかつたのである。わたくし(塩田氏)の見た所を以てすれば、家政の按排は主に側室お春さんの手裏にあつて、此女は先生をして貧甚しきに至ることを免れしめたやうである。お玉が池の新宅は、わたくしの親戚の所有の空地《くうち》を借りて建築したものであつた。其費用は種々の工夫に由つて辨じたものである。わたくしは或日先生の使に海賊橋辺の商家に往つて、金六十五両を借りた。海賊橋は今謂ふ海運橋である。わたくしは金を懐にして四日市を過ぎた。偶《たま/\》絵草紙屋の店に新板の役者絵が懸けてあつた。わたくしは好劇癖《かうげきへき》があつたので、歩を駐《とゞ》めて視た。さて二三町行つて懐を探ると、金が無かつた。わたくしは遺失したかと疑つて、踵《くびす》を旋《めぐら》して捜し索めた。しかし金は遂に見えなかつた。前《さき》に絵草紙を看た時、掏摸《すり》に奪ひ去られたのである。わたくしは已むことを得ずして家に還り、救を父楊庵に求めた。父はわたくしのために金を償《つぐの》うてくれた。金は柏軒先生が番匠某に与ふる手附金であつた。」
その三百九
わたくしは安政丁巳に柏軒がお玉が池の新居を営んだことを記して、塩田|良三《りやうさん》の途に工費を失つた話に及んだ。
此家は今川越にある安部大蔵さんが目撃して記憶してゐる。安部氏の園田|宗義《むねよし》さんに寄せた書牘《しよどく》にかう云つてある。「伊沢磐安の宅は迂生《うせい》二十歳の頃に見し所を記憶す。神田お玉が池市橋邸の東横町にて、俗に二六横町と称へし処なり。門長屋《もんながや》ありて、小身の旗本の屋敷かと覚ゆる構へなり。医師の家としては当時の風俗より視て可なり立派なるものなりし。」
わたくしは渋江抽斎伝に柏軒がお玉が池に移つて、新宅開きの宴を張つたことを記した。彼保さんの姉|水木《みき》と柏軒の女《ぢよ》安《やす》とが長歌
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