家は伊予守|正教《まさのり》の世となつた。
 渋江保さんは母にかう云ふ事を聞いた。正教の世となつてから、阿部家の一女が病んで柏軒の治を受けた。一日《あるひ》柏軒はこれを診して退き、「今日の御容態は大分宜しい」と云つた。然るに女《ぢよ》の病は程なく増悪《ぞうあく》して死に至つた。是より正教は柏軒を疎《うと》んじ、柏軒の立場は頗《すこぶる》危殆《きたい》に赴いた。恰も好し、幕府の任命が下つて、柏軒は幸にして苦境を脱することを得たと云ふのである。
 此談の伝ふる所は頗《すこぶる》明確を闕いてゐる。阿部家の一女はその誰なるを詳《つまびらか》にしない。正弘の世を去つた丁巳六月十七日より柏軒の奥詰を拝した己未八月廿二日に至る間に夭した人は戊午六月五日に亡くなつた正寧の女|操子《さうこ》四歳、法諡《はふし》麗樹院があるのみである。
 わたくしの此談を記するのは、柏軒の気質を証するが如きを覚ゆるからである。此談は柏軒が予後《よご》を誤つたことを伝へてゐる。予後を誤ることは豪邁なる医の免れ難い所である。気象豪邁なるときは、技術に諳錬《あんれん》してゐても、予後を説くに臨んで用意の周全を闕く。誤《あやまり》に陥り易い所以である。
 柏軒は幕府に仕へて頭初より奥詰を拝した。松田氏が柏軒の多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻元冬嶺の歿後に出たのを、其重用せらるゝ一因としてゐることは既に云つた。しかし松田氏は又かう云つてゐる。幕府は医家中に於て多紀氏を重視してゐた。柏軒は幼より多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭の講筵に列してゐて、多紀氏の準門人である。それゆゑその任用せられたのは、多紀氏の余沢である。柏軒は一面多紀氏累世の余沢を被り、一面※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭歿後多紀両家の当主が皆弱冠であつたために群を抜いて立身する便を得たのだと云つてゐる。是は首肯すべき論である。
 柏軒は奥詰医師に任ぜられた頃、中橋よりお玉が池に居を移したらしい。文淵堂所蔵の花天月地《くわてんげつち》に、小島成斎の柏軒に与へた書があつて、日附は九月二十二日である。そして書中には柏軒の仕宦と移居との事が併せ記し
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