二百九十三
安政三年は蘭軒歿後第二十七年である。二月二日に蘭軒の女長が四十三歳で歿した。蘭軒の女は天津《てつ》、智貌《ちばう》、長《ちやう》、順《じゆん》、万知《まち》の五人で、長は第三女であつた。長の夫は棠軒の親類書に「御先手井手内蔵組与力井戸応助」と云つてある。長の一子勘一郎は同じ親類書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。長の二女は同書に「陸軍奉行並組別手組出役井戸源三郎支配関根鉄助妻」と云ひ、又「娘一人父応助手前罷在候」と云つてある。
長は谷中正運寺に葬られた。先霊名録に「究竟室妙等大姉、葬于谷中正運寺」と云つてある。按ずるに正運寺は井戸氏の菩提所であつたのだらう。
柏軒が阿部侯の医官となつたのは此年であるらしい。歴世略伝に「安政丙辰阿部公侍医」と云つてある。伊勢守正弘三十八歳の時である。しかし任命を徴すべき文書等は一も存してゐない。
只良子刀自所蔵の文書中に柏軒が阿部家に於ける「初番入《はつばんいり》」の記及当直日割があつた。わたくしはこれを抄して置いたが、今其冊子を人に借した。初番入の記には年次もなく干支もなかつたことを記憶する。しかし少くも月日は知ることを得られようとおもふ。
伊沢氏よりは既に棠軒が入つて阿部家の医官となつてゐる。然るに今又柏軒を徴《め》すに至つたのは、正弘が治療の老手を得むと欲したものか。
柏軒の妻俊の遺文を検するに、此年五月十八日に富岡《とみがをか》永代寺に詣でた記がある。永代寺には成田山不動尊の開帳があつた。武江年表に拠るに開帳は三月二十日より五月二十日に至る間であつたらしい。「同(三月)廿日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於て開帳」と云つてある。丙辰は三月小、四月大、五月小であつた。俊の詣でたのは閉帳二日前であつた。記中に棠軒の妻柏の妊娠の事が見えてゐて、俊等が開帳の初より参詣を志してゐながら、次第に遅れた事が言つてある。
八月九日に棠軒の二女|良《よし》が生れた。現存してゐる良子刀自である。棠軒公私略に「八月九日朝、女子出生、名良」と云つてある。
此八月は大風雨のあつた月である。公私略に「同月(八月)廿五日、東都大風雨、且暴潮、損処甚多」と云つてある。武江年表に云く。「八月廿三日微雨、廿四日廿五日続て微雨、廿五日暮て次第に降しきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近来稀なる大風雨に
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