好は甚好の弟子、甚好は慈悲成《じひなり》の弟子だと云ふ。当時の狭斜の事蹟に精《くは》しい人の教を待つ。
 榛軒の友人知人の事は此に終る。次にわたくしは榛軒の門人の事を記さうとおもふ。榛軒門人録には四十五人の名が載せてある。しかし今其行状を詳にすべきものは甚だ少い。わたくしは已むことを得ずして、只|偶《たま/\》曾能子刀自の話頭に上つたものを叙列することとする。
 榛軒は門人を待つこと頗《すこぶる》厚かつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日榛軒は塾生の食器の汚れてゐたのを見て妻に謂つた。「女中に善く言つて聞せて、もつと膳椀を綺麗に滌《あら》はせるやうにせい。諸生も内へ帰れば、皆立派な檀那だからな。」

     その二百七十四

 わたくしは榛軒の門人の事を書き続ぐ。門人中には往々十一二歳より十五六歳に至る少年があつた。清川安策、柴田常庵、三好泰令、雨宮良通《あめのみやりやうつう》、島村周庵、前田|安貞《あんてい》、高井元養等が即是である。
 丸山の家の後園には梅林があつた。梅が子《み》を結ぶ毎に、少年等はこれを摘み取り、相擲《あひなげう》つて戯《たはむれ》とした。当時未だ曾て梅子《ばいし》の黄なるを見るに及ばなかつたのである。既にして榛軒が歿し、弟子が散じた。伊沢氏では年毎に後園の梅を※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]蔵《えんざう》して四斗樽二つを得た。
 榛軒は少年弟子のために明《あけ》卯の刻に書を講じた。冬に至ると、弟子中虚弱なるものは寒を怯れた。そしてこれを伊沢氏の寒稽古と謂つた。
 清川安策|孫《そん》は豊後国岡の城主中川氏の医官清川玄道|※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《がい》の次男であつた。玄道は蘭門の一人で、其長男が徴《ちよう》、次男が孫である。
 伝ふる所に従へば、父玄道は人となつて後久しく志を得ずに、某街の裏店《うらだな》に住んでゐた。家に兄弟十八人があつて、貧困甚だしかつた。しかし玄道は高く自ら標置して、士人の家には門がなくてはならぬと云ひ、裏店の入口に小い門を建てた。又歳旦には礼服がなくてはならぬと云つて、柳原の古著屋で紋服を買つて著た。
 未だ幾《いくばく》ならぬに玄道は立身した。その目見医師の班に加はつたのは年月を詳にせぬが、躋寿館の講師に任ぜられたのは天保十四年十一月十六日である。即ち榛軒と年を同じ
前へ 次へ
全567ページ中420ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング