を祀り、礎下《そか》には冑が埋めてあつた。其名を甲蔵《かふざう》稲荷社と云つたのは、人家の祀る所の神が多くは稲荷であつて、甲冑の二字は古来転倒して用ゐられてゐたからである。祭日には白山神社の神職を招いた。神饌《しんぜん》は酒、餅、赤飯、竹麦魚《はうぼう》、蜜柑、水、塩の七種であつた。素《もと》此祠は阿部家に於て由緒あるものであつたので、祭日には阿部侯の代拝者が来た。
猶此に附記すべき事がある。それは榛軒の家に白木の唐櫃に注連繩《しめなは》を結ひ廻したものが床の間に飾つてあつたことである。櫃の中には後小松帝の宸翰二種と同帝の供御《ぐご》に用ゐられた鶴亀の文ある土器とが蔵してあつた。宸翰は大字の掛幅《くわいふく》と色紙とであつた。是は素榛軒の祖父|信階《のぶしな》の師武田長春院の家に伝へてゐた物であつたが、武田氏は家道漸く衰へて、これを商賈の手に委ねむとした。其時榛軒が金を武田氏に与へて請ひ受け、他日買戻を許すと云ふ条件を附して置いたのである。後榛軒の養子|棠軒《たうけん》は家を福山に徙す時、此櫃を柏軒の家に託した。柏軒の嗣|磐《いはほ》の世に至つて、世変に遭つて其所在を失つた。
榛軒が常に追遠の念に厚い嗣子を養はむことを欲してゐたのも、此の如きピエテエの性より出でたものである。幸に養子良安は祖先を敬することを忘れなかつた。
その二百六十九
榛軒の軼事《いつじ》中わたくしは次に講学の事を書く。しかし其受業の師は前に載せたから今省く。
榛軒は毎月一六の両日躋寿館に往いて書を講じた。塾生中午食の辨当を持つて随従したものは、柴田常庵、柴田修徳、高井元養、島村周庵、清川安策、雨宮良通《あめのみやりやうつう》、三好泰令等であつた。皆榛軒門人録に見えてゐる人々である。
榛軒の家に医書を講ずる会を開いたのは、毎月九の日であつたと云ふ。天保壬辰三月の柏軒の日記に、九日に多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が傷寒論を講ずることを休み、榛軒が上直《じやうちよく》したと云つてある。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭を丸山に迎へたのであらうか。又此三月には榛軒が十日十五日に外台秘要を講じてゐる。按ずるに講書の日は必ずしも年々同一ではな
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