は武田氏の裔《すゑ》で、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国|石禾《いさわ》に本づいてゐるらしい。
総宗家旗本伊沢より宗家伊沢が出でたのは、初世正重、二世正信、三世|正岸《せいがん》を経て、四世正久に至つた後である。系図を閲《けみ》するに、伊沢氏は「幕之紋|三菅笠《みつすげがさ》、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衛正重は天文十年に参河国で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鉄砲組足軽四十人を預つて、千五百五十三石を食《は》んだ。二世|隼人正《はいとのかみ》正信は東福門院附|弓気多《ゆげた》摂津守昌吉の次男で、正重の女婿《ぢよせい》である。正信は文禄四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所蔵の正保二年の江戸屋敷附に「伊沢隼人殿、本御鷹匠町《もとおんたかじやうまち》」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延宝二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川実記に拠れば、隼人正正信の子は主水正政成《もんどのかみまさしげ》である。延宝中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊沢主水正、三千八百石、鼠穴《ねずみあな》、父主水正」がある。即ち此人であらう。
系図に政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊沢は正保中には鷹匠町、延宝以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。
その四
蘭軒の高祖有信が旗本伊沢の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉|幾勢《きせ》の話を、蘭軒の外舅《しうと》飯田休庵が聞いたものとして伝へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊沢の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾を嫉《にく》んで、害を赤子《せきし》に加へようとした。有信の乳母《にゆうぼ》が懼《おそ》れて、幼い有信を抱いて麻布|長谷寺《ちやうこくじ》に逃げ匿《かく》れた。当時長谷寺には乳母の叔父《しゆくふ》が住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。
有信の生れたのは天和元年だと伝へられてゐる。此時旗本伊沢の家は奈何《いか》なる状況の下にあつたか。
当主は初代正重より四代目の吉兵衛正久であつた。江戸鑑を検するに、襲家の後寄合になつて、三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊沢主水正の家に生れたことは確実である。
有信が生れた時、
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