に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
さて十六日の黄昏《たそがれ》に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎《やど》つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島|杉木小路《すぎのきこうぢ》の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此|夕《ゆふべ》嚔《くさめ》を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘《かんどく》を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁《さと》つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺《かんなべ》に来り寓してゐる頼|久太郎《ひさたらう》の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上《のぼ》さずに罷《や》んだのではなからうか。
その二十七
蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父|隆升軒信階《りゆうしようけんのぶしな》が猶《なほ》健《すこやか》であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側《うちそば》みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐《うすださいさ》と云ふものが来掛かつたので、それをも誘《いざな》つて、三人で茶店《ちやてん》に入つて酒を命じた。三人が夜半《よなか》まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各《おの/\》別れて家に還つた。
蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
臼田才佐は茶山|書牘《しよどく》中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎《ゐさい》の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋《めいけう》々下と書し、蘭軒は礫川《れきせん》と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
蘭軒の集に此|夕《ゆふべ》の七律二首がある。初の作はお茶の水で
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