、縦棒二本は下までつなげたものをあてる」、「籀」の本字、8巻−91−上−7]篇《しちうへん》、蒼頡《さうきつ》七章、爰歴《ゑんれき》、博学七章、蒼頡篇、凡将篇《はんしやうへん》、急就篇、元尚篇、訓纂篇等があつた。急就篇は「元帝(漢)時、黄門令史游作」と云つてある。抽斎は古抄本に拠つて定本を作つたのである。其詳なることは経籍訪古志に見えてゐる。成斎は又「急就篇文字考」をも著した。わたくしは嘗て渋江氏板成斎正楷の急就篇を寓目したが、今其書が手許に無いから、跋文を引くことを得ない。此年抽斎三十三歳、成斎四十二歳であつた。
森氏では枳園が此年禄を失つて江戸を去つた。枳園は祖母、母、妻勝、三歳の子|養真約之《やうしんやくし》の四人を率《ゐ》て相模国に赴いた。
塩田氏では此年楊庵の子|良三《りやうさん》が生れた。父楊庵は三十一歳であつた。
此年榛軒三十四、妻志保三十八、女《ぢよ》柏三つ、女久利一つ、柏軒と妻俊とは二十八、蘭軒の女長二十四、蘭軒の姉正宗院六十七であつた。
その二百四十五
天保九年は蘭軒歿後第九年である。わたくしは先づ先霊名録に拠つて蘭軒の妻|益《ます》の姉の死を記せなくてはならない。飯田休庵の女《ぢよ》、杏庵の妻で、荏薇《じんび》問答の榛軒書中に所謂「叔母」である。此女子は四月四日に六十五歳で歿した。
次に偶然伝へられてゐる柏軒剃髪の日は、此年八月|朔《さく》であつた。良子刀自所蔵の文書中に一枚の詠草があつて、端に「天保九年八月朔日、信重祝髪之時所詠之歌」と題してある。披《ひら》いて観るに、前に旋頭歌一首がある。「初落髪而作歌一首。努釈迦之教学※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]曾流仁波非黒髪者速須佐之男命習※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]《ゆめさかのをしへまなびてそるにはあらずくろかみははやすさのをのみことならひて》。」後に三十一字の歌三首がある。「尚方術而作歌三首。久之乃業唐之吉人之言真奈※[#「田+比」、第3水準1−86−44]其幸者須倍迦美爾能武《くしのわざからのえひとのことまなびそのさきはひはすべかみにのむ》。九度肱折※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]毛弥進阿波礼久須利師之上登奈良末久《こゝのたびひぢををりてもいやすゝみあはれくすりしのかみとならまく》。迦羅久邇之薬之業者習雖底日宇固加奴倭魂《か
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