て柳湾の詩を見た。会日の「重陽明日」即ち九月十日であるべきことは、慊堂が既に云つてゐる。しかしその丙申九月十日なることは、柳湾が独りこれを言つてゐるのである。啻《たゞ》に然るのみならず、厳密に言へば、九月十日を期した会が果して期の如くに行れたと云ふことも、又柳湾が独り伝へてゐるのである。
慊堂の書に拠るに、初め榛軒は慊堂を請じ、慊堂は略《ほゞ》これを諾した。唯或は雨ふらむことを慮《おもんぱか》つて云々した。榛軒は肩輿《けんよ》を以て迎へようとした。是に於て慊堂は書を裁して肩輿を辞したのである。是がわたくしの目睹した唯一の慊堂の尺牘《せきどく》である。
「手教拝読。秋冷盈至之処、益御清穆起居奉賀候。然者《しかれば》兼而御話御坐候老人会、弥《いよ/\》重陽明日御催に付、拙子も罷出候様先日令弟御入之所、不在に付不得拝答。此間小島子来臨、因而《よつて》御答相頼、乍然《さりながら》雨天なれば老人には定而《さだめて》迷惑可仕と可有御坐心得に而《て》、雨天の事申上候。雨天に而皆々被参候事に御坐候得ば曾而《かつて》不苦、草鞋《さうあい》布韈《ふべつ》尤妙に御坐候。遠方竹輿など被下候には及不申、此儀は堅御断申上候。但止宿之事は此節|奈何《いかゞ》可有御坐、此は臨時之事と奉存候。此段※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]奉答仕候。頓首。九月端五。松崎慊堂、伊沢長安様。尚以竹輿之事はくれ/″\も御断申上候也。」
「令弟」は柏軒である。榛軒は初め慊堂を請ぜむがために、弟を羽沢《はねざは》へ遣つたのである。慊堂の初の答を榛軒に取り次いだ「小島子」は宝素か抱沖か。「老人には定而迷惑可仕と可有御坐心得」は稍解し難い。しかし末の「止宿之事は此節奈何可有御坐」と対照して其義を暁《さと》ることが出来る。老人は多分迷惑するだらうとおもふ懸念より云々したと謂ふのである。推するに此「可有御坐」は慊堂特有の語ではなからうか。
慊堂の書は紅色の巻紙に写してある。字体勁にして潤である。絶て老人の作る所に似ない。
尚歯会の年、慊堂は六十六歳であつた。
わたくしは未だ慊堂日暦の丙申の部を閲することを得ない。伊沢氏尚歯会に来集した館松崎以外の老人の誰々なるかが、或は日暦中に見出されはせぬだらうか。わたくしはそこに一縷の望を繋いで置く。
此年伊沢氏では榛軒三十三、妻
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