初に宗家の裔鑑三郎さんを尋ね得て、次に「又分家」の裔二世全安さんを尋ね得た。そして二家は曾て相識らなかつたのである。此より類推すれば、其中間なる分家の裔も亦、鑑三郎にも識られず、二世全安にも識られずして、何処にか現存してゐはすまいか。
京水と其近戚遠族との事は一応此に終る。わたくしは此より下《しも》に伊沢氏に縁故ある家々に於ける、此年天保七年の出来事二三を記す。
宝素小島春庵は前年天保六年に奥詰に進められ、此年の暮に法眼に叙せられた。是が其一である。
阿部家では此年十二月二十五日に正寧《まさやす》が致仕し、正弘が十万石の福山藩主となつた。是が其二である。
わたくしは此に天保丙申の記事を終らむとして、端《はし》なく近藤俊吾さんの書を獲た。そして榛軒の嘗て催した尚歯会が此年に於てせられたことを知つた。尚歯会の事は、わたくしも夙《はや》く知つてゐたが、未だその何れの年に繋くべきものなるかを知らなかつたのである。
その二百四十二
伊沢氏の尚歯会は蘭軒が曾て催さむと欲して果さずに歿したものである。既にして蘭軒の賓客中に加ふべかりし狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も亦歿した。それゆゑ榛軒は此年天保丙申の九月十日に急にこれを催して亡父の志を遂げたのである。
此日に丸山の榛軒の家に来り会した老人の誰々なるかは、今知ることが出来ない。初めわたくしは只松崎|慊堂《かうだう》が客中にあつただらうと云ふことを推測してゐた。それは慊堂の会に赴くことを約した書が文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐるからである。此慊堂の書は会に先つこと五日に裁したものである。想ふに慊堂は必ずや約を履《ふ》んで席に列したことであらう。
既に云つた如く、此会の年月日は近藤氏の教ふる所である。そしてわたくしは啻《たゞ》に此に由つて会の年月日を知ることを得たのみではなく、又客中に館柳湾《たてりうわん》のあつたのを知ることを得た。
近藤氏の抄して寄せたのは、「柳湾漁唱詩第三集」である。「伊沢朴甫宅尚歯会。故友伊沢蘭軒嘗擬招親交中高年者、設尚歯之宴、未果而歿、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎在其数中、而亦尋物故矣、今茲天保丙申秋九月十日、賢嗣朴甫設宴召集、蓋終其先志也、余亦与之、座間賦一律、似朴甫及※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎後之少
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