#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の詳伝の有無《いうむ》を知らない。しかし見聞《けんもん》の限を以てすれば、其妻であつた狩谷|保古《はうこ》の第三女は生歿の年月が不詳であるらしい。
然るにわたくしは頃日《このごろ》市《いち》に閲《けみ》して一小冊子を獲た。藍界《らんかい》の半紙二十六枚のマニユスクリイで、茶表紙の上に貼《てふ》した簽《せん》に「糾繩抄」の三字が題してある。内容は享和三年より天保九年に至るまでに歿した人の忌日で、聴くに随つて書き続いだものと覚しく、所々明に墨色の行毎に殊なるを認める。
一友人は筆蹟が屋代弘賢《やしろひろかた》に似てゐるが故に、或は弘賢の自筆本ではなからうかと云ふ。弘賢は天保十二年に八十四歳で歿した。若し友の言《こと》の如くならば、輪池《りんち》が歿前三年即八十一歳に至るまで点簿したこととなるであらう。
按ずるに標題の糾繩《きうじよう》は隋書に「若不糾繩、何以粛※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]」と云つてある如く、ただす義である。此を以て此書に名づけたのは不審である。わたくしは或は糾纏《きうてん》の誤ではなからうかと疑つた。しかし詩人等は屡糺繩を用ゐること糾纏のごとくにしてゐる。わたくしは題簽を熟視してゐるうちに、ふと紙下に墨影あるに心附いた。そして日に向つて透《すか》して視た。果して茶表紙に直《ぢき》に書いた別の三字があつた。此三字は「過去帳」であるらしい。推するに初め過去帳と題し、後|忌《い》んで糾繩抄と改めたものであらう。
此糾繩抄の文化七年庚午の下《もと》には七人の名がある。原文の儘に録すれば、下《しも》の如くである。「正月廿七日小野蘭山(八十二歳、二月発喪)細見権十郎(三月十六日、実は八月十四日、号秋月院道法日観居士)加藤定四郎(四月十九日朝)太田備後守殿(六月十七日於掛川死去、脚気腫之由)望之妻(六月十八日朝)吉川熊太郎(七月十四日病死)おのふ(八月。)」括弧内は細註の文である。
わたくしは此「望之妻」は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻であらうと謂《おも》ふ。果して然らば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻狩谷氏は文化七年庚午六月十八日の朝歿したこととなるであらう。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の墓誌には「育一男二女、男即懐之、(中略、)女一適高橋某、一適
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