政九、十、八薨、五十五」と記してあるが、明和、安永、天明より寛政の初年に至る雲上明鑑、雲上明覧等の書を閲《けみ》すれば、寛政九年五十五歳は少《わか》きに失してゐるらしい。右の諸書を参照すれば、頼尚は寛政九年六十三歳であつた筈である。頼尚の室は、拙記に拠るに、北小路|光香《みつか》の女《ぢよ》、日野|資枝《すけえだ》の養女で、即頼理の母である。口碑に先妻後妻云云の事があつたから、次《ついで》に附記して置く。
要するに志保の生父を錦小路家に求むることは徒労なるが如くである。然らば去りて何れの処に向ふべきであらうか。わたくしは未だ其|鍼路《しんろ》を尋ぬることを得ぬので、姑《しばら》く此研究を中止する。
小島宝素は志保の生後四十三年に其地に就いて求めたのに、何の得る所も無かつた。今志保の生後百十余年にして、これを蠧冊《とさつ》の中に求めむは、その難かるべきこと固《もとより》である。
榛軒の家には此年壬辰に、前記以外に事の記するに足るものが無い。試に榛軒詩存に就いて、年号干支あるものを求むるに只榛軒が此秋|問津館《もんしんくわん》にあつて詩を賦したことを知るのみである。此「天保三壬辰秋日問津館集」の七律に「経験奇方嚢裏満、校讐古策案頭多」の聯がある。又結句の註に、「主人近日有城中卜居之挙」の語がある。是に由つて観れば、問津館の主人は蘭軒父子と同嗜なる医家で、壬辰の歳に江戸の城外より市中に移り住んだものと見える。
此年市野氏で光徳が家督した。迷庵|光彦《くわうげん》の後、光寿を経て光徳に至つたのだから、迷庵より第三世である。
頼氏では九月二十三日に山陽が五十三歳で歿した。門田《もんでん》朴斎の「書駒夢応人乗鶴、附驥情孤歳在辰」に、壬辰の辰字が点出せられてゐる。山陽の事蹟は近時諸家の討窮して余蘊なき所である。惟《たゞ》其臨終の事に至つては、わたくしの敢て言はむと欲する所のもの一二がある。
その二百四
先づ江木|鰐水《がくすゐ》撰の行状を読むに、頼山陽の死を叙して下《しも》の語を成してゐる。「天保元年庚寅。患胸痛。久而愈。三年壬辰六月十二日。忽発咳嗽喀血。(中略。)時方著日本政記。乃日夜勉強構稿。曰我必欲成之而入地。及秋疾益劇。(中略。)自始病禁酒不飲。而客至。為設筵。談笑自若。病既革。曰我死方逼矣。然猶著眼鏡。手政記。刪潤不止。忽顧左右曰。且勿喧。我将
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