4]《うづ》むることを謀り、且布施金二朱を持つて来たことを告げた。
楊庵は十七歳の時江戸に来て、此寺に寄宿し、名医を尋ねて師事しようとして、遂に蘭軒の門に入つたのである。僕は当時寺にゐたので、楊庵と親しかつた。僕は楊庵に謂つた。「そのお金は和上《をしやう》様に上げなくてはならないのでせうか。」
「さうさな」と楊庵は云つて、顔には横着らしい微笑《ほゝゑみ》が見えた。「小父さんは金を上げなくつても、回向をして下さるかも知れない。」
「それは大丈夫です」と、僕が受け合つた。
僕は程近い天麩羅屋に天麩羅を誂へた。そして飯を炊いた。猫を※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]《うづ》め畢《をは》つた時、飯が熟し天麩羅が来た。二人は飽くまで食つた。楊庵は大食の癖があつて、酒を嗜《たし》まなかつた。僕はそれを知つてゐたのである。
楊庵は榛軒の妻に復命した。「猫は長泉寺に葬りました。回向は小父がいたすやうに申して置きました。しかしわたくしは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を衝くことが嫌だから申しますが、あの二朱は穴を掘らせた男に天麩羅を買つて食はせて、わたくしは相伴をいたしました。」
蘭軒歿後十三年は天保壬寅である。榛軒の妻は当時継室志保になつてゐた。塩田楊庵は出羽国山形の七日町《なぬかまち》から、文政癸未に江戸に出て長泉寺に寓し、尋で蘭軒の門に入つた。当時の名は小林玄瑞であつた。猫を葬つた壬寅の歳には神田松坂町の流行医塩田|秀三《しうさん》の養子になつて、子|良三《りやうさん》をもまうけてゐた。年は既に三十六歳、榛軒より少《わか》きこと三歳であつた。楊庵は肥胖漢《ひはんかん》で、其大食は師友を驚かしたものである。渋江抽斎は楊庵の来る毎に、例《いつ》も三百文の切山椒を饗した。三百文の切山椒は飯櫃の蓋《ふた》に盛り上げる程あつたさうである。
その百九十二
伊沢分家の口碑は、次に蘭軒に潔癖があつたと伝へてゐる。
此|癖《へき》は既に引いた※[#「くさかんむり/姦」、7巻−374−下−1]斎《かんさい》詩集文政壬午の詩に就いて、其一端を窺ふことが出来る。「但於間事有遺恨。筅箒不能手掃園。」蘭軒は脚疾の猶軽微であつた時は、常に手に箒を把つて自ら園を掃《はら》つてゐた。僮僕をして掃はしむるに至つて、復《また》意の如くなること能はざ
前へ
次へ
全567ページ中304ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング