石台本が行はれた。
 我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院|実隆《さねたか》の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池《やしろりんち》の校刻した本は是を底本としてゐる。
 そこで狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定《ちようてい》に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。

     その百五十四

 わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下《しも》の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思つた。「自有私見、而従玄宗注」と云つてゐる。按ずるに蘭軒と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは見る所を同じうしてゐたのであらう。
 菅氏では此年文政六年に、茶山が大目附にせられ、俸禄も亦二十人扶持より三十人扶持に進められた。歳杪《さいせう》の五律は「喜吾垂八十、仍作楽郊民」を以て結んである。梁川星巌夫妻の黄葉夕陽村舎を訪うたのも亦此年である。
 頼氏では此年三子又二郎が生れた。復《ふく》、字《あざな》は士剛《しかう》、号は支峰である。里恵《りゑ》の生んだ所の男子で、始て人と成ることを得たのは此人である。
 其他森枳園が此年蘭軒の門に入つた。年は十七歳である。
 大田南畝は此年四月六日に歿した。茶山が書を蘭軒に与へて、老衰は同病だと云ひ、失礼ながら相憐むと云つてより、未だ幾《いくばく》ならずして歿したのである。茶山は南畝より長ずること僅に一歳で、此年七十六であつた。南畝は七十五歳にして終つた。
 此年蘭軒は四十七歳、妻益四十一歳、子女は榛軒二十、常三郎十九、柏軒十四、長十、順四つであつた。
 文政七年の元日は、棕軒正精が老中の劇職を辞して、前年春杪以来の病が痊《い》えたので、
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