禅山僧。能解人意如此。亦可嘉。」法岸寺《はふがんじ》と云ふ寺は今猶湯江にあるか、どうだか。
相模房総の遊後に、霞亭は再び北して越後に入つた。山陽の墓誌には「又寓越後」の四字が下《くだ》してある。凹巷の詩にはかう云つてある。「去此客于越。章甫未必悲。越人虚席迎。敬待物如儀。(中略)游賞渉春夏。新潟洵所宜。(中略)山水待君顕。文章敵七奇。」
霞亭の越後に寓したのが、某年の春夏であつたことは、此凹巷の語に由つて知られる。そして某年は必ず文化四年でなくてはならない。何を以て謂ふか。渉筆に載せてある戊辰の記に下の一段があるからである。「去年仲春。主茨曾根関根氏。一夕与主人飲于斎中。大杯満酌。頽然酔倒。不知主人起去。夜将半渇甚。起視則篝燈※[#「勞」の「力」に代えて「火」、第3水準1−87−61]々。寂無人声。啓戸窺庭。雪月争輝。満園之樹如爛銀。予不覚叫奇三声。惟恨無同賞心者。困憶子猷山陰之興。誦招隠詩数回。取雪水煮茶。兀坐達旦。其襟抱之清。不言可知。」茨曾根村《いばらそねむら》は中蒲原郡|白根町《しろねまち》の南にある。丁卯三月に霞亭は茨曾根にゐた。此より後夏を新潟に過したのであらう。
此北越の遊が文化四年であつたことは、上《かみ》の文を草し畢《をは》つてから、凹巷の北陸游稿を見てこれを確証することを得た。此書はわたくしの曾て一たび蔵して、後これを失ひ、今又一書估の齎し来るに会つて購《あがな》ひ求めたものである。游稿の序は亀田鵬斎が撰んでゐる。其文にかう云つてある。「友人志州北条子譲。丁卯歳先我游于信越之間。為北游摘稿数十篇。上梓以問世。」此に由つて観れば霞亭の游は啻《たゞ》に筆に上《のぼ》せられたのみならず、又|梓《あづさ》にも上せられてゐるのである。
記して此に至つて、わたくしは再び霞亭南帰の問題に撞著《たうちやく》する。霞亭は越後より南帰して、伊勢国|度会郡《わたらひごほり》林崎に駐《とゞ》まつた。此間の事を叙するに、山陽の筆は唯空間を記して時間に及ばない。
凹巷の詩には此事を叙してかう云つてある。「異郷雖可楽。故国有厳慈。学成勝衣錦。菽水想怡々。信中攀桟道。帰思日夜馳。別来已八年。訪我顧茅茨。(中略。)経過従此数。咫尺寓林崎。」わたくしは初め「別来已八年」の句を下の「訪我」に連《つら》ねて読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後
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