寺社奉行を兼ね、十四年に老中に列した。渡辺修二郎さんはかう云つてゐる。「正精閣老たること殆ど七年、公正廉潔を以て聞ゆ。時に同僚水野忠成君寵を得、権威を振ひ、専ら事を用ゐ、請託公行《せいたくこうかう》す。正精忠成が行ふ所を見てこれを是とせず、意見相|協《かな》はず、因て病と称して職を辞す。」忠成は沼津の城主水野出羽守である。正精は病と称したとは云つてあるが、事実上にも身体に多少の違例があつたことは、下《しも》に記す如くである。正精の解綬は冬の初に至つて纔に裁可せられた。
 八月|朔《ついたち》の蘭軒が覚書に阿部侯の病の事が記してある。「八月朔日、殿様御不快中拝診被仰付候に付、爰元御門並丸山表御門刻限過出入共定御移被下候様、岡西玄亭を以及御達候処、勝手次第と被仰聞候。」爰元《こゝもと》は西丸下の老中屋敷、丸山は中屋敷である。尋《つい》で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の違例は甚だ重くはなかつたと見える。
 詩引に「幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣為不乏矣、公日行渉為娯」と云つてある。江戸図を検すれば、神田の阿部邸は正精の未だ老中にならなかつた前と、その既に老中を罷めた後と、同じく猿楽町の西側にある。蘭軒が「賜邸」と書したのは故ある事であらうが、福山藩の人に質《たゞ》さなくてはわからない。それはとまれかくまれ、正精は西丸下より小川町に移る中間に、一たび丸山邸に入つたのである。

     その百三十五

 阿部正精は将《まさ》に老中の職を罷めむとする時詩を賦した。「癸未以病辞相、短述※[#「てへん+慮」、第4水準2−13−58]懐」として七律一首、又「同前七絶八首」として聯作の絶句がある。末《すゑ》には「文政六年歳次癸未秋九月下澣、阿正精藁」と署してある。
 此詩は正精が自ら書して古山静斎に与へた。後正精の六男正弘は、静斎の子善一郎のために、「牆羮」の二字を巻首に題した。後漢書の「昔堯※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]之後、舜仰慕三年、坐則見堯於牆、食則覩堯於羹」に取つたのである。
 七律に云く。「半歳寥寥久抱痾。一朝解綬意蹉※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]。欲抛人世栄名累。難奈君恩眷寵多。庭際霜寒飄老葉。池頭秋晩倒枯荷。回思二十年間夢。浩歎※[#「勹
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