、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶《とも》に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵《れいざう》は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。
その百十八
わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹《きつたん》より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂《にんちよう》に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪《かこう》の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑《しばら》く措いて、わたくしは書籍《しよじやく》の運命の奇を説く次《ついで》に、行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]《かうたう》の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭※[#「二点しんにょう+多」、第4水準2−89−86]音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭※[#「二点しんにょう+多」、第4水準2−89−86]《くわくい》の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざる
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