と云ふのである。
その十四
伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中《なかんづく》茶山は同じく阿部家の俸を食《は》む身の上であるので、其|交《まじはり》が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋《わらぢ》を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に山陽を紹介して、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
此説は世の伝ふる所と太《はなは》だ逕庭《けいてい》がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※[#「月+(勿/口)」、7巻−29−下−5]合《ふんがふ》する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿《じゆうぼせい》の二洲|尾藤良佐《びとうりやうさ》が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂《いはゆる》足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾《さしはさ》みやうも無い。
しかし口碑などと云ふものは、固《もと》より軽《かろがろ》しく信ずべきでは無いが、さればとて又|妄《みだり》に疑ふべきでも無い。若し通途《つうづ》の説を以て動すべからざるものとなして、直《たゞち》に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計《たいさうけい》ではなからうか。
伊沢氏でお曾能《その》さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父|榛軒《しんけん》も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉|幾勢《きせ》は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て
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