げ》を訪ひ、又曾て頼春甫に交つた土屋七郎の死が此断片に由つて知られる。茶山のこれを書いたのが此年の初春だとすると、七郎は前年己卯に歿したことであらう。
 文政四年の元旦には、蘭軒の詩に生計の太《はなは》だ裕ではなかつた痕が見える。「辛巳元日作。昨来家計説輸贏。纔迎新年心自平。椒酒酔余逢客至。先評花信品鶯声。」人生は猶|瘧《ぎやく》のごとくである。熱来れば呻吟し、熱去れば笑歌する。わたくしは去つて菅茶山のこれに処する奈何《いかん》を顧みる。「元日。一年始今日。転瞬已昏鴉。三百六十日。例当如此過。吾年七十四。所余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」貧が蘭軒の心に※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]繞《えいぜう》する如くに、老が茶山の心を擾乱する。偶《たま/\》節物の改まるに逢つて、二人は排除の力に一策励を加へてゐたのである。
 例年の「豆日草堂集」には、其前日に高束《たかつか》応助と云ふものが梅花を贈つたので、それを瓶《へい》に插した。「佳賓満堂供何物。独有梅花信不違。」高束応助とは誰であらうか。後に蘭軒の女《ぢよ》長《ちやう》の嫁する先手与力井戸翁助と云ふものがある。蘭軒は翁助と書してゐるが、親類書には応助に作つてある。その或は同人なるべきをおもつて、徳《めぐむ》さんに質した。しかし異人であつた。集中の春の詩は以上二首のみである。
 三月には蘭軒の二子が阿部侯|正精《まさきよ》の賞詞を受けた。勤向覚書に曰く。「三月十一日悴良安医学出精仕、御満足被思召候御意奉蒙候。同日次男盤安去年中文学出精之段達御聴御満足思召候段奉蒙御意候。」良安は榛軒|信厚《のぶあつ》、盤安《はんあん》は柏軒信重で、彼は十八歳、此は十二歳である。

     その百十二

 蘭軒の二子榛軒柏軒は、上《かみ》に云つた如く、此年文政四年三月十一日に阿部侯正精の賞詞を受けた。
 歴世略伝に拠るに、是より先榛軒は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、松崎|慊堂《かうだう》に就いて経を受け、父蘭軒、多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻本|※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《しゆうあん》、田村|元雄《げんゆう》に就いて医学諸科を修めた。柏軒が経学の師も亦※[#「木+夜」、第3水準1−85−
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