に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後《のち》を襲《つ》いだ。後|秉之助《へいのすけ》と云ふ。名は秉、字は師揚《しやう》、号は篁翁《くわうをう》、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝《まいばらはくかう》の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質《たゞ》した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略《ほゞ》明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。
その百九
此年文政三年の夏、鈴木|宜山《ぎざん》に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言《ぞうげん》したことは、前に云つた如くである。
わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原|周迪《しうてき》があることを発見した。伯孝と周迪とは均《ひと》しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下《しも》にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
しかしわたくしは既に羮《あつもの》に懲りてゐる。曩《さき》にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田|方《はう》の狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門人なることを錯《あやま》り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字《あざな》は叔亀《しゆくき》は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐《ふたゝ》びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原|玄益《げんえき》なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
阿部家の医官馬屋原氏は世《よゝ》玄益
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